ドニゼッティ「連隊の娘」を観劇して。シュルピス軍曹の献身について
校外学習ではじめてオペラを観劇した。
日生劇場、ドニゼッティ「 #連隊の娘 」。
指 揮:原田慶太楼
演 出:粟國 淳(日生劇場芸術参与)
管弦楽:読売日本交響楽団
合 唱:C.ヴィレッジシンガーズ
めちゃくちゃ良かった。
第一幕が始まって「えー!こんなところにオーケストラがいるのか」とか「歌いながら話をするのはリアリズムではないものの不思議と自然に説得されるな」とか僕なりに〈はじめてのオペラ〉を楽しんでいたんだけど、第二幕の、あるソロにぐっと惹きつけられて、そこから物語に没頭して久々涙が止まらなくなった。
とにかく気に入った。好きなオペラ作品は?と聞かれたら「連隊の娘!それしか知らないけど!」と元気よく答えられるようになった。幸運でした。
トニオのロマンス
まず僕が惹きつけられたのは、トニオのロマンスだった。別の貴族男性との結婚の手続きが進められている最中、マリーのもとへ第二十一連隊の仲間たちとトニオがやって来る。そしてマリーとの結婚を認めてもらうためにトニオは、ベルケンフィールド侯爵夫人に向かって自分の気持ちを訴える。
それが、ほんとうに馬鹿正直なのだ。メリットをでっち上げるとかネガティブな条件を減らすとか、僕だったらなにか小細工を用意してしまうと思う。トニオにはそんなものは一切ない。彼は手ぶらでベルケンフィールド侯爵夫人の居城へやって来る。「マリーのことが好きだから結婚させてくれ、そうじゃなきゃ死ぬしかない」それだけ。この純愛バカの体当たり、それと例の、高いドの音のアリア。底抜けに痛快な愛の告白が、峻険なるアルプスの山並みを背景に切々と歌い上げられる。僕たちはこれでやられてしまう。トニオのことを心のどこかで認めてしまう。こいつとなら、絶対大変だろうけどマリーはなんとかやっていけるだろう…。
侯爵夫人の依頼
しかし侯爵夫人はトニオとの結婚を許さない。追い込まれたトニオは、侯爵夫人が実の伯母ではないことをマリーとシュルピスの前で暴露する。侯爵夫人はトニオとマリーを退室させ、シュルピスに打ち明け話を始める。本当はマリーは、侯爵夫人の姪ではなく、実の娘だった。侯爵夫人は身分の差が理由で世間体のためマリーの実父であるロベール大尉との結婚を諦め、マリーとの血縁関係も隠すことになったのだという。侯爵夫人はシュルピスにマリーを説得するようお願いする。そしてシュルピスは一瞬ためらいを見せるものの、娘の説得を引き受けるのである。僕はこのシーンがダメだった。ほんとうに心揺さぶられた。シュルピスは部屋を出る前にベルケンフィールド侯爵夫人の方を振り向いてこう言う。「でもね、全部ぶち壊してしまうって手もあるんだよ」
ここでのシュルピスの内面の変化はどういうものだったろうか?
シュルピス軍曹の献身
シュルピスは「連隊の娘」マリーを育てた第二十一連隊のリーダーである。連隊の仲間たちは、最初は結婚を反対していたのがついにトニオを認めた。シュルピス自身も先ほどの彼のまっすぐなロマンスを聴いて、二人の幸福な結婚生活を一瞬幻視した。
娘の気持ちを思うならトニオを選ぶべきなんじゃないかと思う。あの二十一連隊の「父親たち」もトニオと結婚させて欲しいと思うだろう。私は彼らの代表としてマリーといるのでもある。しかし、今目の前にマリーの実母が現れた。いつかこの日が来るのではないかと、ほんとうはずっと恐れていた。
私たちの天使が「連隊の娘」としてずっと一緒に暮らしてきてくれたのは特異な例外状態だった。本当の親御さんが迎えにきたらマリーは帰ってゆくのであって、それまでの一時的な代理親としての役割を全うしようと思ってマリーを育ててきた。私には軍隊のことしかわからない。本来マリーが所属するべき貴族の世界の事情は侯爵夫人の方がずっと詳しいはずだ。さらにその上、彼女はマリーの母親なのだ。母親の考えを尊重すべきだし、マリーはずっと母親と生きられずにきたのだ。今結婚という一大事を前に、余所者は退場すべき時だ。マリーはトニオを愛しているのだから、このつらい選択を決断させるのは、私のせいにさせればよい。私を憎めばよい。いまや私にできるのはそれだけだ。
そういう了解だったのではないか。
僕の涙の止まらなかったのは、トニオとベルケンフィールド侯爵夫人、二人の真の愛を前に、養父たる「分」を弁えて自ら一歩後景へと退出するシュルピス軍曹の沈黙が、深く突き刺さったのである。