公#10「キュビズム展に行って、手帳に鉛筆でスケッチをしました。キュビズムの絵そのものは、見ていても、さして面白いとは思えないんですが、スケッチをして線を引いていると、複雑な線を引く、楽しさに、ちょっと嵌まりました」
「公共10」
アーティスト名はヨルシカ。曲名は「だから僕は音楽をやめた」。セリフは「娘のCDを借りたんだ」。このセリフは、私が授業で言った言葉。ヨルシカは、当時、中学生だった次女が好きで、ラジカセで一緒に聞いていた。小中学校の9年間、次女と二人で、年に3回展覧会に行って、ライブにも一年に4、5回行ってた。次女が高校生になって、一緒に行動することをやめた。私は、娘離れしなきゃいけないし、次女も父親離れする必要があった。次女は、大学生になってからは、中学時代の美術仲間と一緒に、展覧会や学園祭に行ったりしている。私は、コロナ禍が一応、終息してからは、ずっと一人で展覧会に行ってる。次女と一緒に行動するのは楽しかったが、アートを鑑賞するのであれば、やはり一人がbest。「だから僕は音楽をやめた」をしょっちゅう聞いていた頃、だから私は次女と一緒に行動することをやめた。
アーティスト名はあいみょん。曲名は「真夏の夜のにおいがする」。セリフは「うぉぉーゼッタイやってやるぞ!」。真夏の夜の匂いが、どういうものか、自分なりのイメージはつかめている。描かれているのは、下水道のモンスターみたいなキャラ。ビクトルユーゴーの「レミゼラブル」の最後の方で、ジャンバルジャンが、パリの地下道に逃げ込む場面がある。地下道の中にモンスターがいて、サポートしてくれるとしたら、こういうタイプだろうなと、想像した。モンスターとか妖怪とかは、やっぱり季節限定グラコロのように、夏場の限定ものだと思う。
アーティスト目はヨアソビ。曲目は「群青」。セリフは「好きなことを続けること、それは楽しいだけじゃない」。横にピンを止めてあるので、キャンバス地だと思うが、背もたれのない椅子に座っている女子生徒が、キャンバスに石膏像を鉛筆で描いている。自由に絵を描くことは好きかもしれないが、だからと言って、必ずしも石膏デッサンが好きだとは限らない。
この2年間くらい、上野の都美術館や西洋美術館、六本木の新国立美術館などで、クロッキー帳やスケッチブックに鉛筆で作品を模写している人を、一人も見たことがない(ちなみに美術館では、ペン、ボールペン、毛筆などの筆記用具の使用は禁止されているが、鉛筆のみ許可されている)。
多分、石膏デッサンは、別に積極的にやりたい訳ではなく、課題だから取り組んでいるんだろうと想像できる。課題、宿題とかとなると、やはり気持ち的にブルーになる。だから、「群青」ってことになるのかもしれない。
ブルーピリオドという藝大を目指す受験マンガを読んだことがある。このタイトルのブルーは、渋谷の朝のブルーだった。渋谷に朝(早朝)行ったことは、一度もないが、朝の景色が、ブルーなんてことは、春夏秋冬を通して、絶対にない。ブルーになるのは、夕暮れの降魔ヶ時。が、マンガだからそこは自由。ヨアソビのこの曲は知らないが、ピカソの若い頃のプルッシャンブルーに近いんだろうと、勝手に想像している。
ヨアソビの「群青」は、複数の人が選んでいた。その時の状況にもよるが、そこらの象、スイカ、ライオン、ウサギとかがブルーでもOKらしい。まあしかし、判らなくもない。私は、つい最近だがゴーギャンは、やっぱり青だなと思うようになった。有名なボストン美術館にある「我々は何処から来たのか、我々は何か、我々は何処に行くのか」の大きな絵は、 空と海、そして人物のあちこちに刷いてある青が、すべてを引き締めていると、考えることもできる。
あえて、何も描いてなくて、絵の枠の中が、白紙の答案があった。曲名として「4分〇〇秒」と書いてある。つまりアメリカの現代音楽家が、4分〇〇秒の間、ピアノの前に座って、何も演奏せず、そのまま立ち去ったという実験的なコンサートの様子を現していると判断できる。アーティスト名は、ジョンケージ。曲名は4分33秒。絵は、つまり表現だから、表現しないのも表現だという理屈も、やはり成り立つ。
アーティスト名は、高橋優。曲名は「福笑い」。セリフは「この世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う」。Englishと、ゴシックで大きく描かれていて、これに材木を、交差させたようなバツがついている。英語を、もしかしたら憎んでいる(?)ような気さえする。笑顔は四つ。真ん中上部は、多分、ボク。目がぐりぐりしてる。左は多分、兄ちゃん。もしかしたら、左目を閉じて、プチウィンク。真ん中はパパ。髪が薄く、目は細い。右は髪をお団子にしたお母さん。お母さんは、眉は描いてあるが、目がない。目がなくても、何でもお見通しってことかも。とにかく、この絵は、プチヤバそうな笑顔を表現している。プチヤバくても、笑ったもの勝ちだと思う。
アーティスト名は、キングヌー。曲名は「白日」。セリフは「あの日のあの時、あの場所に戻れたら俺は」。イラストは、充血した、マンガみたいな目をした男の子が、ボロボロの服を着て立っている。人として、悩み、苦しんでいる。が、中身は判らない。もう失うものは何もないというとこまで、追い込まれているような気もする。ここに到るまでに、何故、もっと早く知らせて来なかったんだと、声をかけてあげたくなるようの絵。まあしかし、逆に言うと、描いた本人は、自分はここまでは落ちないという決意表明なのかもしれない。
アーティスト名はSHISYAMO。曲名は「明日も」。セリフは「毎日、大変で良いことばかりではない。でもあの人がいれば、がむしゃらにがんばれる」。この曲は知っている。高校生バンドがコピーしたくなる、元気の出る曲だと推定できる。絵は、心の中に、マイヒーローがいれば、自分はいつだって頑張れるといった風なことを、表現したイラスト。my heroは、別段、リアルの三次元の彼でなくても、構わない時代だと感じる。今は、my heroが、「推し」でもきっとOK。昔の「推し」と言えば、ほぼほぼジャニーズのアイドルだったが、今は、「推し」がオールジャンルに広がっている。夏場だったら、うまい棒推し。冬だったらキムチ鍋推しとかでも、エネルギーを補給して、充分に頑張れる。ちなみに、私の推しは、アート。展覧会に出向かなくても、自宅で画集やカタログをぼぉーっと眺めているだけでも、happyになれる。
アートにはBGMは不要。というか、BGMがあると、アートの中で表現されている微妙なリズムが掴めなくなってしまう。漱石は、アートは好きだったが、音楽はまったく聞かなかった。私は、アートも音楽も好きだが、アートと音楽のマルチタスクは、無理だと判断している。