公#4「ユング派の治療法は、夢判断と箱庭療法と絵画の三本立て。学校の特別指導は、やたらと反省文を書かせるんですが、反省文は、おおむね、偽善、嘘を助長するだけだと、私は思っています」
「公共4」
「公共」の中間試験で、「自由」というタイトルで、絵を描いてもらった。大人になると、こういう抽象概念を絵にすることは、なかなかできない。まず、「自由」という言葉に縛られてしまう。「自由」という言葉から、何かを感じて、それを素直に絵にすればいいわけだが、大人たちは思考の回路が固まってしまっていて、自由に感じたりすることは、結構、難しい。
社会科の同僚に先生に「自由という言葉から、どういう絵が浮かびますか?」と、訊ねたら、ドラクロワが描いた七月革命の時の民衆を導く自由の女神のかなという返事が戻って来そうな気がする。フランス革命の百年後の1889年に、フランス政府がアメリカに贈ったニョーヨークにある「自由の女神」も、登場するかもしれない。日本史の先生だったら、「板垣死すとも自由は死せず」の名セリフで有名な自由党の板垣退助と、その周辺のイメージかもしれない。とにかく「自由」のフレーズがつかないと、何か収まりがつかない。
16、7歳の高校2年生の思考回路は、まだ、充分にflexibleかつ柔軟で、「自由」という言葉には囚(とら)われず、思い思いの絵を描いている。あるクラスの生徒は、猫が寝そべっている姿を描いて、セリフの欄には「ねむいからねるニャー」と書いてある。つまり猫の自由を表現している。
猫の自由があれば、トラさん、ライオンさん、白クマさんの自由だってあるだろう。が、我々が見るトラさん、ライオンさん、白クマさんは、動物園の檻の中にいる。檻の中にいて、本当に自由なのかという新たな問題が発生する。
絵ではなく、作文課題を出すこともある。「自由」について文章で書きなさいだと、一挙にハードルは高くなる。絵を描いて下さいという課題を出して、描かなかった生徒は、記憶にある限り、一人もいない。多分、全員、描いた。自由に書いて下さいという文章課題だと、私の経験から判断する限り、ひとクラスに一人は、書かない生徒がいる。作文の配点を、30点とかにしても、書かない生徒は、やっぱり書かない。絵は、配点などとは無関係に、全員が、割合、リラックスして描いてくれる。
ユング派の精神疾患の治療法は、夢判断、箱庭療法、絵の三本立て。夢判断は、自分が見た夢を覚えておかなければいけないので、軌道に乗るまで、ある程度、時間がかかる。箱庭は、ちっちゃな砂場遊びみたいなもので、まあ、それほどハードルは高くない。絵は、自分が見た夢の絵などを描くとなると難しいが、自由に何でも思いついたことを、描いて下さいという課題だと、その場で、画用紙とクレヨンを渡しても描ける。
ユング派もフロイト派もロジャーズ派も、作文を書いて来て下さいという課題は出さない。学校の生徒の特別指導というのは、基本、作文中心。毎日の日誌を時系列にそって細かく書き、反省文もたっぷり書かなければいけない。私は、現役時代、生徒部に在籍していた時期も、かなりあったが、基本、文化祭、後夜祭、合唱祭などのイベント担当だった。生徒に私が反省文を書かせたことは、一度もない。
文章を書くことに慣れてないと、文章はどうしたって、趣旨から逸れて、横道に行ってしまう。それと、文章は、どうしてもネガティブな方に引っ張られてしまう。ネガティブなことを書いた方が、より文章らしいという勘違いが、脳に刷り込まれている。まあそれと、文章というのは、嘘を書くのに適した媒体だと思う。SNSで嘘が蔓延したり、必要以上に盛ったりするのは、文章が、そういうことを知らず識らずの内に、求めているからだと思う。
生徒たちは、さまざまな切り口を見つけて、「自由」について描いていた。絵を見て、ほっこりしたのは、私が教室にCDデッキを持ち込んで、エンディングを流しているsceneを描いてくれた作品。セリフのとこに「今日、流すのはヨルシカのだから僕は音楽をやめたです」と、書いてある。まずこれは、授業を受け持っている私の「自由」を表現してくれている。音楽を流すことが、自由かどうかは、難しい問題だが、過去40年間、ずっと流して来て、ギリOKだろうと私は判断している。結構、私の顔を若く描いてくれている。私は、自分が若く見られても、年寄りの爺さんと思われても、そんなことは、正直、どっちでいいが、実年齢(69歳)よりも、精神年齢は若いという自信ある。精神的に幼いってとこも、まああるかもしれない。が、頑固爺さんになるよりは、精神的に幼いの方が、いいだろうとは思ってる。
見守っているお母さんの自由、空を飛翔している鳥さんの自由、DKが描いた超パリピのJKの自由など、他者の自由を表現した絵も結構、あったが、多かったのは、やはり高校2年生のNowの私の自由。定期試験終了後の自由、今後の進路選択の自由、何をすればいいのか全然判らない自由といった風なテーマ。
何をすればいいのか全然判らないというのは、理解できる。これを打破というか突破するためには、自分自身の手で、自己に負荷をかけるしかない。それは、たとえば、毎日、30キロ歩くと言った、無茶な負荷でもいい(比叡山延暦寺の千日回峰行は、毎日、30キロ歩くという負荷をかけている)。毎日、30キロだと、一日7、8時間は歩いていることになる。そうすると、残された時間を、如何に有効に使うのかと、考えるようになる。松尾芭蕉は、奥の細道の旅で、毎日、平均して30キロ歩いている。一日、30キロのハードなwalkingの間に、句を考えることは不可能。句も文章の原案も、休んでいる時に、集中して考えている。一日、30キロ歩くという負荷をかけたからこそ、あの奥の細道の名文と句が生まれたと言える。
今、自分の進路とか何にも考えられない人は、取り敢えず、負荷をかけて欲しい。高2の今だと、ターゲットの単語を毎日、百個覚えるとかでいい。そうすると、20日間で、一巡する。これを五回繰り返すと百日。五回も繰り返せば、さすがに英単語は、perfectに身につく。単語が身についた時には、もうやりたいことは、見えて来ている。1900語も単語を、ちゃんと覚えたら、逆にその覚えた英単語が、やりたいことを、紡ぎ出してくれる。これが、人が勉強をすることの本当の意味だと思う。
自分に負荷をかければ、残った時間を使って人間は必ず動き出す。動くのは、それは人間が自由だから。自由のありがたさが判れば、この世界の見え方は違って来る。