ヒロシマ女子高生任侠史・こくどうっ!(42)
「話が違うで、おい……」
小網は天神会会長用リムジンの後部座席で、親指同士でせわしなく押し相撲をしているのを見ていた。
彼女の下に連絡が入ったのは、ヒロシマ城炎上の翌日なんと朝六時。宇品から『白島の生存』を聞かされ、すぐに学校に来てほしいとのメッセに面食らう。
「小網の親分、生徒会室へどうぞ。皆さんお待ちです」
学校のロータリーに着くと、長楽寺組の使いだという生徒が、リムジンの扉を開けて外へ出るように促した。
気に入らぬ。
宇品も長楽寺も、序列で言えば格下のこくどうである。それがさも主導権を握ったように自分を呼び出すというのも、白島の生存を知らせるのも、気に入らない。
生徒会室に歩みを進めた小網が見たのは、上座に被せるように置かれたジャケットだった。彼女はこれを見たことがある。歴代天神会会長が背負っていたジャケットは、この世に二つとしてない──それに、正式発表前の最新デザインの刺繍も施されている。これがここにある理由はただひとつ。会長はヒロシマ城から脱出したのだ。そうでなければ説明がつかない。
「小網の姉妹。朝から来ていただいてすいませんのう」
ゆみはソファに腰掛けたまま、見上げて言った。
「……会長は?」
「病院です」
「なんで宇品もおる」
宇品は応えない。俯いて顔をあげようともしない。腕組みをしたまま、ゆみの隣に座ったままだ。
小網は居心地の悪さを感じながらも、二人の目の前に座り、足を組んだ。
「で? 話っちゅうのは? 会長が存命なら、紙屋連合への攻撃の相談かいや。返しならもう誰ぞ走っとるんじゃろ」
ゆみは足元の鞄を開けると、無言で中身を取り出し、机の上に置いた。
重い音が響くそれは、木鞘に納まったドスであった。
「小網の姉妹。元は姉貴分のあんたに、恥はかかせとうないんですわ。まどろっこしいことは言わんです……ケジメつけてもらえんですか」
ゆみはそれだけ言って、押し黙った。小網の脳裏に、様々な計算と想定が駆け巡る。何を言わんとしているのかは、既に理解している。
爪を落とせと言っているのだ。
「……何の話じゃ。冗談にゃオモロうないで」
「冗談を言うとるように聞こえますか?」
ゆみの冷静な口調に、火が点いたように小網の怒りが爆発した。思わず机の足を爪先で蹴り、ドスが一瞬浮かび上がる。
「おう、ワレ眠たいこと言うたら困るで」
ナメている。ナメられている──しかもこくどうとして最も不名誉な爪を落とす行為を格下のゆみに強要されるなど、あってはならないことだ。
「元は姉貴分のワシに対してよ、やれ爪落とせじゃなんじゃ言うて、どこの世界のこくどうが吐くセリフじゃ、コラッ! 何のケジメをつけえ言うんじゃ、ワレ! 性根据えて一から十までのたまってみんかい、コラ! 半端言うとるとぶち回すど!」
ゆみは姿勢を正し、ふう、と息をついて眼鏡を外して置く。一拍置いてから手を机に叩きつける。
「ほたらモノを言わしてもらいますがのう、小網の姉妹よ! あんたはカタギにならにゃならんくらいのことをしとる! ほいでも、あんたは天神会の大幹部じゃ。それなりのカッコをつけんといけん!」
「じゃけえ何でじゃ言うとろうが! 理由を言え理由を!」
「理由を言うたらもう後には引けんのです! もう分かるでしょうが!」
悪手だ。小網はほぞを噛む他無かった。何を言わんとするかはもう察している。自分から言い出せるわけもなく、爪を落とせと言われて大人しく落とせるわけがない。
一方で、本当に長楽寺が理由を言い始めれば、それはそれで身の破滅だ。こんな場を設けたのだって、白島会長が生きている──つまるところそのからくりを共有したからに外なるまい。言っても言わなくても、ゴネても爪を落としても、結果は変わらない。
詰んでいる。
それでも小網は考えを巡らせる。
「姉貴。もう辞めましょうで」
宇品が重苦しく口を開いた。
「こくどうっちゅんは、そういうんじゃなあでしょ? 乙女として、キレイな形に収めて、美しく終わらせんと……」
「おう、宇品! ワレようけそがあな口をワシに聞けるのう、コラ! ワレがキレイだ美しくだ、言えるタチか、下手打ちがコラ! だいたいこのワシに、元は舎弟分だったワレらが渡世の講釈を垂れるんも気に食わんわい! そもそもこっちにゃつけにゃならんケジメなんちゅうんもないんじゃい! ええ加減にせえ!」
「ほんなら、小網ワレ! 道龍会に天神会を売ろうとしたのはどがあな了見なんじゃ! 申し開きがあるんか!」
ぴいん、とその場の空気が一気に張り詰めた。宇品も、小網も──導火線に火が点いたことを感じていた。
「語るに落ちたのうボケ共! 爪を落とせなんちゅうて無茶言う思うたらお前、何を根拠にそがあなことを抜かす! 半端なこと言うてみい、後悔させたるぞコラ!」
宇品は腕を組むのをやめた。
そして、右手の甲を見せるように机の上に置いた。
彼女の小指と薬指の爪があった箇所には、真っ赤な血と肉が痛々しく置き換わっていた。
爪を落としたのだ。
「姉貴。ワシャ紙屋連合内紙屋会の人間として、ケジメつけました。薬指は、姉貴と約束を守れんかったケジメです。その上で、ワシは紙屋連合に残ります」
小網はそれを聞いて、前髪がはらりと目の前をよぎり──彼女が何を言いたいのかを察した。
道龍会と小網の繋がりは抑えた。ただそれは小網自身を追い詰めるには弱い。しかし、紙屋連合との取引については、他ならぬ宇品自身が当事者であり証人になっている。
天神会は紙屋連合との戦争に負けた。その威信は地に落ちたのだ。その原因となった取引──宇品と取引し、ヒロシマ城襲撃事件を見逃し動かなかったことは、彼女を始末しない限りは覆ることはなく──小網自身がそう指示したことに違いはない。
つまり、小網は白島が死んだ原因を作り出した張本人という図式が成り立ってしまう。宇品は紙屋連合側の責任として、一足早くケジメをつけたのだ。
となれば、連合側の責任者として宇品が爪を落としたのもまずい。当然天神会側の当事者として小網の名前は隠しようがないし、同じことをゆみにも指示してしまっている。それなら宇品と同じく責任を取らねば、渡世の辻褄が合わなくなる。
道龍会の件は、長楽寺のブラフ──本命は、この瞬間、思考停止に陥ったこの数秒を作り出すためだったのだ。
「おう、小網! ほたらこの宇品がよ、ワレに腰叩かれて白島会長の襲撃の便宜を図れっちゅうたんは記憶にあるじゃろうが、ワレ! それともなにか? 天神会の大幹部っちゅんは、都合の悪いことは脳が働かんようにできとるっちゅんかい!」
うまく言葉が出てこない。屈辱と混乱と殺意と敗北が小網を満たしていく。
トドメに、ゆみが鞄から取り出して机に置かれたスマホから若頭と自分の声が歪んで聞こえてくる。
『……それじゃ、君が道龍会の手引をしたということで間違いないわけだね』
『さあ? ワシらは警察じゃなあでしょうが。怪しい思うんなら、拷問でもなんでもやったらええが』
自分で言った言葉なのに、まるでそれが責めてくるように思えて、小網はスマホへ手を伸ばす。ゆみが引っ込めることで、それは叶わず終わった。
「わ、分かった。よくわかった! ほたらよ、のう。ケジメつけるけん。爪落として、会長にもワビ入れて……」
「ボケ! 理由を言うたら後には引けん言うたじゃろう! ワレカタギになれや!」
そこでキレて暴れることもできた。しかし小網は不思議とそんな気持ちにならず、体から力が抜けてしまう。敗北感に押しつぶされそうになる彼女の目の前に見えたのは、もう死んだはずの五分の姉妹──紙屋の姿だった。
姉妹ェ。紙屋の姉妹ェ。なんでそんな目で見る。
宇品の失態を蒸し返すこともできよう。しかし、それ以上のことを自分はした。
道龍会を使って天神会をコントロールしようとしたのは紛れもない事実だ。それを、長楽寺は暗にカタギになることで封殺する、と言ってくれている。
そこまで考えが至り、小網はようやくその理由を察することができた。これは白島の命令ではない。
白島は無能をそのままにしない。裏切り者なら尚更だ。カタギにして不問にする、などという甘い処断はしない。小網は上座に目を向けて、広げられているジャケットに宿る龍に思いを馳せる。このジャケットは白島の威──言ってみれば抜け殻だ。つまり彼女はもう死んだ。
それでも小網は、もはや反抗する気力を失っていた。長楽寺は良いこくどうになった。会長以下幹部が全滅した状態からは荷が重かろうが、彼女なら跡目を継ぐことができるだろう。
「……もう、疲れた。言うとおりワシャ、カタギになるわ……」
考えてみれば、破門でも絶縁でもない。小網会を子分に継がせれば、こくどうの先達としての最低の義務を果たせたことにはなろう。
若頭に問い詰められた時、反抗勢力を蜂起させるべきだったのを、読み違えてしなかったのは自分だ。宇品の動きを読みきれなかったのも、自分だ。こくどうの古い故事にもあるように、昨日の姉貴分が今日の三下に落ちることなど珍しくもない、生き馬の目を抜くような世界だ。今まさに小網は、時勢に乗り切ることができずに振り落とされたのだ。
「……ほいで、どうする。ワシが降りた言うても、紙屋連合は止まらんど。会長もどうせ生きとらんのじゃろ」
ゆみは眉を持ち上げて、元姉貴分の洞察の深さに感心を覚える。もうせらふじ会によるSNSのコントロールは使えない。おそらく本日中、下手すれば正午までには白島の死がヒロシマ中に伝わるだろう。
そうなれば、紙屋連合は白島や幹部不在となったヒロシマを奪いにかかる。始まればもはや止め様がない。しかしゆみには、それを収める策を胸に秘めていた。血を流すことなく、ヒロシマに回った炎を消すための策を。
「会長は『道龍会』によって殺された。ウラは取れとります。その返しをしたんは、紙屋連合の上島安奈です」
「どこのチンピラな、そんなあは」
「日輪高子の五分の姉妹ですよ」
ピンときていない小網を尻目に、ゆみは話を続けた。
「紙屋連合は元々天神会から離反した組織です──が、事実上の絶縁しかしとりません。つまり、単に御家騒動が起きて収拾がついた……ちゅんなら、そう不思議なもんでもなあでしょうが」
「……話が見えんで」
「紙屋連合を天神会に正式に戻して、日輪を会長代行に迎えるんですよ。外様のあんなあだと、跡目に迎えるわけにゃいかん。ほいでも、五分の姉妹分に仇を取らせたこくどうっちゅう肩書なら、次の会長までの『つなぎ』にゃあ十分でしょうが」
小網はため息を漏らし、乱暴に手櫛を黒髪に通した。そしてドスに手を伸ばす。
迷わず左小指の爪に根本から刃を突き入れて、爪を引き剥がす。ハンカチを巻き付けて口でぎゅっと結び目を作ると、ティッシュに剥がれた爪を載せて、それに包んだ。
「ゆみ。ワシを今すぐ絶縁せえ」
「引退してもらえりゃええんですで」
「ワシに紙屋の姉妹を殺した女の下につけェ言うんか」
小網はそう言うと、手を庇いながら立ち上がり、生徒会室のドアに右手をかけた。
「ゆみ。お前の目の付け所は悪うないわ。ほいでもよ……こくどうっちゅんはそう、単純なものと違うで」
それだけ残すと、小網はその場を去っていった。そんな事はわかっている。ゆみは残された血染めの爪を見下ろす。
安奈はこくどうとして、てっぺんに立つ資格を得た。それを活かすことも殺すこともできる。高子にそれを譲ることも──。
あの日、天神会の跡目を奪ると誓いあった日から形は違ってしまったが、白島は倒れた。高子がそれを受け入れるか拒絶するかで、こくどうとしての器が図れるだろう。
「のう、宇品の。……ワシは何か間違っとりゃせんか? 姉貴分に爪まで落とさせて、外様の日輪に跡目まで譲ろうとさせてよ」
小網はハンカチを縦に裂き、小指と薬指に巻き付けながら言った。
「……ワシにゃあそがあな大層な事は言えん。じゃが、上島の姉妹がそうしたい、言うたんじゃ」
惚れた女がそうしたいと言った。こくどうにとって、それは何にも優先する『意志』だ。確かに間違っているかもしれない。もっといいやり方だってあるだろう。それでも、その意志が渡世の『筋』を作るのであれば、意志は何よりも重い意味を持つ。
「腹ァ括ろうで、長楽寺の。あんたがそうでなくとも、ワシャもう括っとるけん。それに、ワシは上島の姉妹のためなら──」
大竹と紙屋の顔がよぎり、宇品の精神を苛む。責める。見殺しにした姉妹たち。決して濯げない罪──罪滅ぼしのつもりかと言われれば、否定はできない。
それでも。
宇品は言葉を切って、爪を落とした指を更に苛むようにぎゅっと握りしめた。
痛い。
しかし、この痛みが上島の姉妹のためになるのなら──宇品はどんな痛みにも耐えられるだろうな、と思う。
「命張ってもええ、と思うとるんよ、ワシは──」
続く
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