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ヒロシマ女子高生任侠史・こくどうっ!(45)

「なんじゃ、ワレら」


 天満屋は登校直後、元町女子学院の校内にも関わらず数名の女子高生に囲まれていた。既に異常な雰囲気である。彼女は落ち着いて──なおかつこくどうとして言うべき言葉を選び取って言った。


「どこのもんじゃコラ」


 制服は他校──しかしその顔にはいくらか見覚えがあった。手には光り物。その目は据わっていて、殺意と功への焦りがぐちゃぐちゃに混ざっている。


「知らんなら教えたるがのう。ワシャ紙屋会の天満屋じゃ」


 天満屋はバッグをその場に落とすと、上着を脱ぎシャツをはだけて凄んで言った。紙屋会の代紋入りの黒いインナーが露わになり、その下の筋肉が一気に戦闘体勢に入る。


「ボケェ! 筋肉ピクピクさしとったら引く思うたら大間違いやぞコラ!」


 セーラー服──恐らく北の田舎学校の制服だ──を着てドスを構えたリーダー格らしき女が叫ぶ。その声は哀れに思うくらい震えていたが──その口に天満屋の右手が被さって、みるみるうちにその体が宙に浮いた。


「痩せても枯れてもワシャ天神会直系紙屋会よ。喧嘩売るなら看板出さんかい、チンピラ!」


 そのまま地面に背中から叩きつける。口から血を吐き、一撃でのしても、そのこくどうの目は死ななかった。他のこくどう達も、震えながらも得物を握りしめたまま動こうとしない。


「わ、わしらは祇園連合の枝の枝じゃ……紙屋会の時は、五次六次のカスじゃった。あんた、わしらの顔も知らんじゃろうが」


 憎悪を目に漲らせながら、息も絶え絶えに口を開く。

 顔も見たことのない人間からの害意を、天満屋はぶつけられた。天神会というブランドに守られたこくどうには、抗争においてすらまれな経験だ。


「ワシらはカスよ。出世の目もない、主役にもなれんモブよ。ほいでも、日輪会長は違う。天神会の人間を殺れば、幹部の席を約束してくれた!」


「なんじゃと……?」


 不動院が裏切った──とは考えられなかった。だとすれば、最終戦争への舵を切ったのは、間違いなく日輪だ。天満屋は混乱を顔に出さぬようにするので手一杯だった。


「こがあな痛快な話があるかいや! 最初で最後、モブから主役になれるチャンス! あん人なら、信じられる!」


 天満屋はその胸ぐらをゆっくりと離して、取り囲んでいるこくどう達──垢抜けない、頼りなさげな彼女らを見回した。天神会の二次団体出身の天満屋にとっては赤子を捻るような実力差があるだろう。彼女らも、その差を理解しているはずだ。

 日輪高子はそんな彼女らを動かす力を持っている。弱者から死をも厭わぬ献身を引き出す。自分本位である者が大半であるこくどうに、それを強いることなく行わせるのは、不可能に近い。

 その不可能を可能にした。となれば、どれだけの手が天神会に伸びてくるかわかったものではない。


「全員、動くな!他校の人間が校内で出入りはご法度じゃ!わかっとんか!」


 ゆみが大きな声を張り上げて、宇品に悠を伴い、野次馬と化した生徒を掻き分けて現れたことで、戦意を喪失したか、一目散に襲撃者は去っていく。一人、天満屋に組み伏せられたこくどうを残して。


「殺れや! 殺らんかい! ほいでもよ、ワシが死んでももう止まらんで。お前らみんな終いじゃ!」


「なんじゃこんなあは。何を言うんなら」


 宇品が訝しんだと同時に、元町女子学院の生徒達が持つスマホが震え、哭き出した。通知──サンメンだけではなく、ありとあらゆるネットワークがヒロシマの異常を伝えたのだ。


「なんじゃなんじゃ、オイ!?」


「あれみてみい!」


 黒い煙が上がっている。

 ひとつやふたつではない。元町女子学院から本通りの方面を見上げると、いくつかの煙とサイレンが上がっている。


「姉様──襲撃です! 祇園連合会が、うちのシマに無差別攻撃をかけとるようです!」


 悠のかざしたスマホの画面の中で、サンメンのタイムラインに襲撃の様子が踊り、流れていく。

 とうとうやってしまった。

 もう止められぬ最終戦争の絶望が、ゆみの足から登ってきて脳を冷やしていく。悠はそれでもなお姉に真実を見せつけるように、タイムラインの中のひとつ、その動画を再生した。

 平和祈念公園の南側──それに面したヒロシマの大動脈、平和大通り。普段であれば車が行き交う複数車線の道路だ。年に一度のフラワーフェスティバルという祭でもない限りは、人が立ち入ることもないその道路を、人が埋め尽くしている。田舎のこくどうでもない限りもう絶滅したような、こくどう部の代紋を掲げた応援旗を掲げた集団が道路の中央を練り歩いているのだ。

 百人、千人──少なくとも義理事でもまともにあったことのないような、四次五次団体の代紋を掲げて、示威行為を繰り返している。異常を感じてか、いつもはこくどう案件で動かない警察が、一般市民を近づかぬよう交通整理を始めた。

 何もかもが異常だ。その異常を引き起こしたのは、日輪高子──。


「……長楽寺の。どう思う」


 宇品は顔を青くしてゆみにそう囁く。一瞬途切れた思考を引き戻して、ゆみは頷いた。


「懸念が現実になったっちゅうところかのう……紙屋会は裾野の広い組織じゃいうて聞いとる。天神会の他校侵略でも、結構な数の組織を縁組したんじゃろ?」


 教科書利権を背景にした他校への侵略行為は、直接的暴力はもちろん、間接的な嫌がらせから始まり、最終的に姉妹分や子分になることを『強制』することで行われた。当然、反発も大きかった。潜在的な反抗勢力もあっただろう。それらは、白島の権威によって全てを抑え込んでいた。そのタガは白島の死によって外れ、もうない。


「ほしたら、紙屋会に連なる下っ端組織が、全員親に歯向かったっちゅうことですか!?」


 天満屋は襲撃者のこくどうにヘッドロックをかましながら、その体を引きずりつつ叫んだ。


「元々強制されたような盃じゃ。一番恐ろしい白島会長は亡くなったし、守る必要も無くなったんじゃ」


「それによ。不動院は、日輪の伝説を吹聴しよった」

 

 宇品は苦々しくそう言って歯噛みする。

 紙屋連合の結束は、元々死んだ紙屋の顔を立てた日輪への義理立てという形で成り立っていた。それがいつの間にか不動院を中心に『白島という絶対的存在に抗う反抗の象徴』として祭り上げられていったのだ。

 中にいた宇品でさえ、予想だにしない変化だった。


「それが、これだけの人間を動かすとはの……」


 この炎は、まさに持たざる者、抑圧された者達による反抗の狼煙だ。

 しかし、ゆみを始めとする天神会の幹部も、この場にはいない安奈も──この炎と狼煙の意味を知っている。

 これは日輪高子一人による、ヒロシマを巻き込んだ復讐だ。消えることのない復讐心が、ヒロシマを焼こうとしている。

 白島にも降らず、天神会の跡目を蹴って、彼女は我が道を行く。その果てがこの炎上するヒロシマだとするならば。

 ゆみは事実上の姉妹分に思いを馳せる。道を違えてしまった彼女に。そして、彼女に手が届くのは誰かを考えて、すぐに答えを出した。


「安奈じゃ。安奈に連絡入れえ!」


「姉様、まさか安奈さんにケジメをつけさせる言うんと違うでしょうね」


 悠はすぐにゆみに顔を近づけて、周りに聞こえないくらいの小さな声で続けた。


「……姉様でも、それはいけません。安奈さんは十分戦った。戦って失ったんです。その彼女にまだ犠牲を強いるんですか」


「日輪は天神会どころかヒロシマ市全てを焼きかねん。今のわしらにそれを止める力があると思うか? よしんばうまく生き残れても、フクヤマ女学生連合が黙ってるとも思えん。……安奈が日輪を倒せれば、天神会のメンツは立つ」


悠は姉の真意を飲み込む。安奈によるヒロシマ炎上の阻止を実現できれば、天神会会長は代替わりしてもある程度の権威を維持できるだろう。姉の非常な計算に対し、彼女は静かに頷いた。


「……分かりました。姉様がそう仰るのなら」


「長楽寺の、上島の姉妹に日輪会長を殺らせる気か」


 宇品はその表情に怒りを混じらせながら、言葉を押し出す。


「場合によればの」


「それはワシが許さんで。日輪は上島の姉妹の親で、姉貴分──祇園会の最後の一人じゃ。それを殺れ言うんは残酷すぎる」


 残酷と言われれば返す言葉もなかった。しかし事ここに至っては、安奈以外にことを収める人間をゆみには思いつかなかった。


「……宇品の。ワシャ何も日輪を殺れとは言うとらん。ケジメをつけェ言うとるんじゃ。どの道、こがあなことになったら、命奪るまで止まらんとは思うが……」


「どうあっても、上島の姉妹にやらせる言うんか」


「ほいで、安奈に天神会の跡目を継がす。それはもう変わらん。そうせんともう生き残れん。ワシも、お前も」


 宇品は少しだけ考えを巡らせ、ゆみから視線を切る。そしてそのままその視線の先にいた、悠を見て口を開く。


「……長楽寺の妹。そういや、ミソがついとらんのと違うか?」


「私ですか?」


「おう、そうじゃ。長楽寺の。確かあんた、こんなあ白島会長の下働きをしよった言うとらんかったか」


 悠が何故暫く姿をくらませていたのかを説明する時、ゆみは宇品と同じように表現していた。実際、事実である。

 それに、世羅に報告した時以上の世間からの追求はなく、何よりこくどう協会や天神会の他の幹部からの追求もまたなかった。白島はゆみを通しての高子のコントロールに腐心していたし、その過程でゆみの妹である悠にケチがつくことを好ましく思っていなかったのだろう。

 長楽寺悠は、白島直属で『行儀見習い』をしており、休学して彼女の付き人をしていた──それが白島の用意したカバーストーリーである。宇品もそれを聞いて、失点がついていないと思ったのだ。


「紙屋会系列は紙屋連合として出ていった引け目がある。ワシも、天満屋も跡は継げん」


 宇品は悠に近づき、少しだけ背の高い彼女の両肩に手を置いて、その瞳をじっくりと見上げた。


「あんたの姉貴も同じ。……じゃが、あんたの姉貴が泥を被れば、あんたは会長直属の付き人で、直系幹部の妹分。言ってみりゃあそら、姉貴と同格っちゅうことじゃないんか?」


「それはどういう……」


 事態が飲み込めない悠の代わりに、ゆみは宇品の言葉を察した。


「まさか、宇品の。お前悠を天神会の跡目にするつもりか?」


「ほうよ。……上島の姉妹にこれ以上渡世の面倒なんか背負わせられるかいや。ケジメをつけるのは仕方ないにしても、天神会の跡目なんかいらんのよ」


 宇品はそのための覚悟──即ち、祇園連合会というこくどうによる大きな波を堰き止めねばならぬ覚悟を決めた。頭数で言えば、今の天神会実働部隊の十倍のこくどう共を止めねばならないのだ。

 それは死の覚悟と同義であった。一日──半日も保たないはずだ。


「日輪会長と上島の姉妹──要はタイマンで決着つきゃあええんじゃ。どっちが上に立つか、それだけ決まりゃあ、あとは自然の流れに任せりゃあええ」


 がっちりと天満屋のヘッドロックに決められたままのこくどうが、むなしく身を捩るのを見て、ゆみは納得する。

 祇園連合会には確たるビジョンがない。首魁たる日輪高子によるヒロシマ統一は、もはや長期的なビジョンのない『目標』でしかない。裏を返せば、その『目標』を挫けば、それで祇園連合会は崩壊する。

 タイマンによる喧嘩で決着がつけば、当然それに越したことはない──それはゆみにもわかっていた。


「木っ端こくどう言うても、こくどうはこくどうじゃ。武器も持っとろう。何人死ぬか分からんで?」


 ゆみは眼鏡を押し上げながら言う。今の宇品にとっては、無粋で無駄な質問だった。


「長楽寺の。……わしゃ知ってのとおりこくどうとしちゃあ二流三流よ。ヘマも何度もしとる。下手すりゃ死ぬじゃろ」


 思えば遠くに来た。多くの生き死にを見て、同じくらいの挫折と屈辱──そして修羅場を通り抜けた。その果てに、彼女は本当にやりたいことを見つけたのだ。

 その気持ちに嘘をつくことはできない。姉妹のための捨て石になる──本望だ。


「ほいでも、わしゃあ上島の姉妹のためにやる。日輪のボケとのタイマンの舞台を用意しちゃる」


「天神会の残存勢力言うても、こんな状況で何人集まるか分からんで。それに日輪をどうおびき寄せる言うんじゃ。暗殺なんかしたら下っ端共がぴいぴい鳴きよるし、天神会のメンツも立たん」


 宇品はスマホを取り出して、画面をゆみ達に向ける。


「紙屋連合会幹部のメッセグループが生きとる。連絡は取れる」


 宇品の考えた作戦は杜撰なものだった。紙屋連合幹部のメッセグループに、日輪への挑戦状を叩きつける。場所はおりづるヒルズ。安奈が天神会のジャケットを着ていくので、タイマンで勝てば好きにしていいと宣言するというものだ。思わずゆみは首を傾げる。


「……乗るかのう、そんな見え見えの罠に……」


「……うちは、乗るんじゃなあかと思います」


 とうとう泡を吹いた襲撃者を地面に転がして、天満屋は一歩近づいて言った。


「日輪会長は、そういう古いやり方に理解がある方じゃと思います。うちがそういうとこがある、言うのも理由ですが」


「……姉様。やるにしろ、うちの十倍近い人数のこくどうを相手に、道を開かないといけません。おりづるヒルズを封鎖してタイマンに持ち込むと言っても、どのくらい保つか……」


 悠の発言に、ゆみは逆に奮い立つ。今ここがすべての分岐点だ。食うか食われるか。彼女にとっては妹が天下を取る千載一遇の機会でもある。


「……やるしかなかろうで。悠、お前も腹括れ。お前は天神会二代目になる。安奈の最後の戦いじゃいうんなら、お前がそのお膳立てをせにゃ意味がない。わしらは天神会の看板で渡世を張ってきたんじゃけん、ここにおるうちの何人か死んでもこくどう張らにゃ、死んだ会長やら若頭に笑われるで」


 こくどうは渡世──つまるところ世間の中での見え方を気にして生きている。面子を立てるためには命を賭けられる。その天神会のメンツを、部外者といって差し支えない安奈に託し、自らも命を賭けるなど、正気の沙汰ではなかった。

 それでも、この場の幹部はそれを覚悟したのだ。



 二時間後。

 平和祈念公園、原爆資料館前、大噴水にて。

 ヒロシマは大揺れだった。サンメンに投稿された祇園連合会の乱暴狼藉は留まるところを知らない。安奈は目にもしたことがない、天神会の幹部だというこくどうが血祭りに挙げられた画像がいくつもサンメンを流れていき、シマ内の施設が襲撃されたかと思えば火を点けられている。

 信じられなかった。

 全て、高子が指示したなんて。

 やさしい人だと思っていた。筋の通った、良いこくどうで──このような暴挙と無縁だと、そう思い込んでいた。

 だが安奈にとって大事でも、高子は他人なのだ。他人の思考を、他人の自分が完璧に捉えられるはずがない。

 それを考えないようにしていた。安奈は、そう思い込もうとしていたのだ。事実として、ヒロシマは今炎上している。SNSで言われているような比喩表現ではない。現実として、焼き払われ燃え広がっている。様々な種類のサイレンが、けたたましくあたりから鳴り響く。


「安奈、……来たっちゅうことは、覚悟できとるよな?」


 噴水の前に立っていたゆみは、開口一番に言った。短いながらも要点を得たメッセージは、安奈に一瞬で覚悟を要求した。

 高子と敵対する覚悟。彼女を倒す覚悟。彼女を──殺す覚悟。


「……できてるわけがないじゃないですか」


 安奈は拳をぎゅっと握り込む。爪が食い込み、その度に思い出が蘇る。暖かい食事の記憶。笑いあった思い出。痛みとともにいくつもの笑顔が浮かぶ。


「もう、誰かを殺すのも、失うのも──私は嫌なんです」


「姉妹ェ。それでもあんたは来た」


 宇品はタブレットケースを取り出して、彼女に差し出した。それを振ると、ころりと一錠転がりだす。


「もう方法は残されとらん」


「それでも嫌です」


「安奈。勘違いすな。ワシらも覚悟した。……殺さん覚悟をした。日輪を殺っても、この戦いは終わらん。ほいじゃが、格付けを済ますことはできる」


 ゆみは噴水から先──平和祈念公園にある慰霊碑の更に先、原爆ドームの奥を指差す。

 おりづるヒルズが冬の夕闇の中に浮かび、そびえ立っている。


「天満屋と宇品から、日輪に向かってメッセージを送っとる。今十六時。十八時ちょうどに、おりづるヒルズの展望テラスで会おう、ちゅうて言うた」


「それじゃ……」


 一筋の希望が差したような気がした。


「いや、話し合いは無理じゃろう。万が一に備えて、天神会には悠を残しとる。各地の暴動を抑えるように言うて指揮させとるが、それでもあと二時間は日輪のシンパのいくらかがワシら四人目掛けて襲ってくるはずじゃ」


「そんな……」


「姉妹ェ。ワシら三人が身体張る。おりづるヒルズにはあんた一人だけでもたどり着け」


 宇品の言葉にどうにも我慢できなくなって、安奈は彼女の肩を掴んで揺らす。どうして。どうしてみんなそうやって身勝手で、まっすぐに犠牲を払おうとするのか。手から落ちたタブレットが転がっていく。同じように、安奈の目から一筋涙が溢れた。


「ワシらは天神会の直系で? 並の根性と違うわい。心配すんなや姉妹ェ」


「……日輪会長は、あんたがたどり着くことを望んどると思いますよ」


 腕組みを解きながら、天満屋は静かに述べた。


「じゃけえ、ワシらが露を払います。今はあんたが天神会の代表ですけん」


「私にそんな資格──!」


 ゆみはそれを遮るように手を広げて、首を振った。


「ワシらが負けたら天神会は終わり。安奈、こっちの都合でいやあ、お前が勝たんといけん。それに、日輪の命を救うっちゅんなら、お前が日輪を下さんといけんのじゃ。天神会会長になれとは言わん。そがあなことは気にせんでええ。じゃけえ──日輪に、勝ってくれや」


 救うために、高子を倒す。理屈で言えばそうだ。しかし、人間は殴れば痛いし血だって流れる。わたしも、姉さんもそれは同じだ。

 怖い。でも不思議と安奈の拳に熱が宿っていた。

 わたしは託された。

 御子さんに。ゆりさんに。リノさんに。世羅さんに。ゆみさんに。深雪さんに。天神会の皆さんに。

 それを単に託されたのだと信じ込むには、安奈は失いすぎていた。だが、それでも彼女は高子を救いたかった。

 些細なすれ違いが重なり合った末に、命を懸けなくてはならないなんて、こんな理不尽なことはない。

 それでも。

 それでも、この酷道の先に、親を、姉妹を──友達を救う道があるのなら。


「安奈。これをまたお前に預ける。日輪は今一番ヒロシマのてっぺんに近いこくどうじゃ。このジャケットを背負っていける人間だけが、あんなあの前に立つ資格がある。……情けない話じゃが、今それはお前しかおらん」


 ゆみは鞄を開けるときれいに畳まれたジャケットを取り出し、それを差し出す。

 死にゆくリノは、このジャケットを背負うことの意味を安奈に説いた。これまでの戦いと、命を背負う。どれほど重いか、既に彼女は理解している。

 だからこそ、自分が背負わねばならないとも。


「次の天神会の会長は誰になるんですか」


 宇品と天満屋はその言葉にどう返すか躊躇した。文字通り命を賭ける安奈ではなく、彼女の意向を汲むこともなく──次の会長を決めてしまったのだから。

 しかしゆみだけは違った。


「悠じゃ。悠になってもらう」


「悠さん──」


「白島会長の下で勉強しよった。妹じゃ言うて贔屓目が無いとは言わんが、ワシもフォローするつもりじゃ。……もうヒロシマでこがあな騒ぎなんか起こさせん。それは約束する」


 腹は決まった。

 安奈は会長になるつもりなどなかった。誰かにやってもらえるのならそれに越したことはない。ゆみと悠の姉妹ならば、この戦いの後も安心だろう。


「ゆみさん。その言葉、確かですね?」


「落としたリップは塗れんけん。……ほいでも安奈、お前が勝てんと夢物語じゃ」


 安奈はそれに応えず、ジャケットに袖を通した。誰かが背に宿る龍を──いや、安奈の背を撫でたような気がした。

 死んでいった者達。もう会えなくなった者達。わたしの、大切な友だち。

 平和祈念公園の周囲から、ぞろぞろと制服を着た女──祇園連合会に与するこくどう達が姿を現す。

 その総勢、およそ百名!

 てんでんばらばらの制服を身に纏い、天神会の幹部の首を狙わんと目をギラつかせている。


「おった! 直参幹部の長楽寺じゃ!」


「紙屋連合の裏切りもんもおるで!」


「首取って出世したれや!」


 竹刀にバット、鈍い長ドス──思い思いの貧相な得物を手にして、持たざるこくどう達は気勢をあげる。


「行けや、姉妹ェ!」


 宇品は叫ぶ。その一方で、彼女の足が震えているのを安奈は見逃さなかった。


「深雪さん!」


「のう姉妹ェ! こくどうなんか辞めても、年食ってババアになってもよ! ワシらはずっと姉妹じゃけん!」


 宇品の手が安奈の背中を押して、彼女は自然と走り出した。ああ、そうだ。彼女は多分、もう大丈夫だ。でもなにか伝えたくて、安奈は必死に頭の中の辞書をめくったが、大した言葉は出なかった。


「深雪さん、死なないで!」


 安奈はもう振り向くこともできずに、そう叫んだ。一番欲しかった言葉が、宇品の足の震えを止めた。

 大竹の姉妹も、子分の鶴見達も見殺しにした最低のクズなのだ、自分は。それに、死ぬなと言ってくれる姉妹がまだいる。

 十分だった。

 それは宇品深雪が命を賭けるに値した。


「三人で百人相手にせえとはのう。貧乏くじもええとこじゃ」


 ゆみはハンカチを固く絞って、それを拳に巻きつける。バンテージの代わりにはなろうが、喧嘩の経験もそうはない。気休めにしかならないだろう。


「長楽寺の親分。二代目。二十五人ずつお任せします。やれますか」


 天満屋は制服の上着をはだけて、総合格闘技部のチェストガードをあらわにする。この三人の中では一番の喧嘩巧者だ。筋肉が武者震いしているのが見て取れた。


「やれるか言うて、残りどがあにするんじゃお前」


 宇品の問いにも顔を向けず、天満屋はずいと前に出て両手の指を関節と逆方向にストレッチして音を鳴らす。それは彼女にとって相対するものへの警告音──仕留めるという意思表示であった。


「残った全員ぶち回しますわ。計算が合うでしょうが」


 頼もしい言葉に頷く。やれるところまでやるしかない。もしかしたら死ぬかもしれない。

 それでも、ゆみの中には少しだけ愉快な気持ちが紛れていた。こくどうとしての晴れ舞台、たった三人での最終決戦。ずいぶんおいしいではないか。考えていた未来とはずいぶん違ってしまったけれど、それでも、やれることをやろう。

 メガネケースへ眼鏡を仕舞い、ゆみは咳払いを何度かしてから、思い切り──その場の全員に向かって、叫んだ。


「おうコラ、ド田舎のクソチンピラ共! 都会の喧嘩のやり方教えたるけえ、全員残らず死にに来いや、ボケェ!!」


続く

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