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Sell a Life That's Life(改題前・人生売買人生)#パルプアドベントカレンダー2024
この小説は、ご覧のイベントの一環でお送りいたします。
男が椅子に座っている。
その手は後ろに回って、腕の付け根と目の上に黒いテープががっちりと巻き付いている。
不自然だったのは、テープの間から流れる涙がそのまま口の側を通り過ぎていくことだった。
その口には、8mmテープが突っ込まれていて、男の身体は時折跳ねるように震えていた。
「保存とは所有することだ」
黒い女だった。
正確には、黒いスーツを着ている。黒いシャツ。黒いネクタイ。そして一部の隙もなく、その肌は闇色のテープに覆われていた。
「蓄音機の発明によって、人は音を保存することができた。人類が音を所有した初めての瞬間だ。以降、人は繋ぎ止められないものを固定し所有することができるようになった」
苦しさからか男の手足はさらに震え、間から苦悶の声が抜けていく。やがてそれは止まり、男の首が落ちた。
地面に乾いた音を立てて、テープが転がる。女はそれにスマホを向けて撮影し、素早くフリマアプリ・バザリオを操作した。
表示されたユーザネームはV.D。そのアイコンの隣をタップする。出品だ。
「つまり所有できる以上は、売れるんだよ。君には値段がつく」
購入希望の通知が、男に一千万の値がついたことを知らせた。
足りない。彼女は舌打ちした。
人身売買は金になる。しかし、リスクは大きい。人生をテープで抜いて記録する、という単純な力を金に変えるには、リスクを最低限に抑えて分かる人に分かるように売れるようにしなくてはならなかった。
だから、V.Dは他人の人生を叩き売っている。人生を抜かれた死体の処分費用で半分は持っていかれるし、そもそもこの男が何者なのかも知らない。
他人の人生で口に糊をしている女。組織の歯車のひとつが、V.Dの正体だった。
フリマアプリの画面を遮って、通知が広がった。組織の人間だ。
『まずいことになった、V.D』
『今すぐそこを引き払え』
何、と返す暇も無い。
『タネがバレてる。人生を買い戻しているやつがいる』
オールドハイト市の地下鉄は、妙に空いていた。
この街はおかしい。
頭上を銃弾が飛び交い、当たり前のように異常犯罪が起こる。常識では考えられないことが、いつでも隣で起こり得る。
V.Dもまた同じ穴の狢だ。黒テープで肌を隠した女なんて、誰もがギョッとするだろう。しかし、この街だからこそ、異常と思われる人間はそっとしておいてもらえるという恩恵もある。要は彼女にとっては住みやすい街だ。
スーツのポケットに入れた8mmテープがかた、と音を鳴らした。彼女は取り出して改めてそれの存在を確かめた。
この中には人間の人生――つまるところ記憶が入っている。人生そのものを全て抜くことができると知ったのはいつからだったろうか。とにかく、そんなことを忘れてしまうくらい長く、V.Dはこの仕事を長く続けている。
「人生……ね」
ふと顔を上げると、通勤途中のカップルに絡んでいる男が見えた。背の高い、横幅の広い――いかにも暴力で身を立てています、といった風体の男であった。
「なあ、仕事行くんなら仕事あんだろ? 俺はねえんだよ。いいよなお前らは。会社に行ったら金もらえんだろ。俺にもログインボーナスくれよ」
つり革にぶら下がって、目を背けようとする二人に顔を近づけながら、わけのわからない絡み方をしていた。
V.Dはそれを確認してから、スマホへと目を落とした。組織からの通知が来たのだ。短い通知が数度連続する。
『我々は手を引く』
『今回の処理については請負うが、買い戻している人物は君を探している。面倒はごめんだ。以降こちらは責任を負わないのでそのつもりで』
会社員ならクビというところだろうか。五百万がパーだ。
このビジネスは、仲介者と下請け業者の存在が必須だ。一人ではできない。その方法もわからない。この街において、V.Dは単に奇妙な能力を操るフリーランサーでしかなくなったのだ。
「……君、どうかそのへんで」
自暴自棄になったのかもしれない。普段なら口を挟まない場面で、彼女は声をあげていた。
「アァ?」
「仕事がないと言ったね。私もそうなったんだ。同じ仲間のよしみで、そのうるさい口を閉じてもらえないか。不愉快だ」
男はつり革を離して背を伸ばすと、V.Dが見上げるほどの大きさだった。彼女は迷わず膝へ蹴りを入れた。男は苦悶の声をあげて、床に膝をつく。この街において犯罪で食おうとするのなら、暴力は必須のスキルだ。
そして口を開けたのが、その男の不運だった。
V.Dはすかさず持っていたテープを口の奥まで突っ込んだ。カップル達はひいっ、と小さく悲鳴を漏らし、そそくさと車両を移って行った。賢明すぎる判断だ。
男の両目の瞳孔の中で、ぐるぐると渦が巻き始める。テープからの書き込みが始まった。
人生は移ろいゆくものだ。
一度肉体から離れた『人生』を元の肉体に戻したことはない。事実上、人生を抜かれた肉体は死ぬ。彼女の力の奇妙な点の一つだ。だから実質的に彼女は殺人に手を染めていることになる。
しかしもっと奇妙なのは、テープにした人生は適切な再生機器を使用すれば再生でき――他人に押し込めば他人の人生を書き換えることもできる。即ち人格を乗っ取る事ができるのだ。
「オェッ! やめてくれ!! えっ」
大男は力の限り叫び、何が起こったのかわからないと言った風に、勢いよくテープを吐き出した。V.Dはそれを男の服で拭ってから、スーツの裏にしまった。
「君の名前はジョン・リビングソン。バザリオ・インクの取締役。そうだろ?」
V.Dは事もなげに言った。ジョンはあたりを見回してから、自分の身体の異変に気づいた。年相応だった中年の身体は消え失せ、酩酊感はあるが、それ以上に気力が違っていた。
暗闇を走るサブウェイの窓に移っていたのは、明らかにジョンではない、おそらく三十歳手前の男の顔だ。
「おいどうなってるんだこれは。誰かに誘拐されて、君に口の中にテープを突っ込まれて――」
「悪いが駅についたら降りよう。その男はどうやら暴力常習者というやつらしいし、警察がくるかもしれない。それに君に話がある」
サブウェイを降り、駅の階段を上がる。市庁舎前駅。自然豊かなセントラルパークの中で、ジョンは見知らぬ自分の財布をまさぐり、どうやら自分が一文無しの素寒貧であることを理解した。コーヒーを出しているワゴンがあったので、V.Dが差し出した金で二杯買い、近くのベンチで彼女から事情を聞くことになった。
「……信じられない」
「信じてもらうしかないな、ジョン。君の命を奪ったのは私だが、与えたのも私ということになる」
「勝手なことを言うな! 俺にだってそれなりに人生があるんだぞ! 元に戻してくれ!」
「無理だ。今の君の体は、適当な人間の体を乗っ取って上書きしたんだ。パソコンじゃないんだから、元に戻す機能なんてない」
両手で握り込んだどす黒いコーヒーが、妙に熱く感じた。もう元に戻れない。もう自分の体はない。それなのに自分自身がここにある。妙な気持ちだった。
「これを見てくれ」
V.Dが見せた携帯の画面に映っていたのは、大企業の取締役だった彼でも見たことのない額の預金残高だった。
バザリオそのものが買えそうなくらいの額だ。少なくとも、自分のいた取締役会なら受け入れかねない――。
「私は特殊な人身売買組織の一員だった。君の体は組織が買い上げ、私は人生を売ってきた。同じようにしてこれまで稼いだ金が入ってるわけさ。人生を賭けたにしては少ないだろ」
「はあ!? 少ない? どうかしているぜ君。これだけあれば適切なポートフォリオを組めば利子で食っていけるぞ」
「……私はね。もう普通には生きられない。君に使ったような力を使って、他人の人生を壊しながら稼いできた」
その言葉の間に『まともな方法でない』という言葉が入るのは明確だった。この街には、そうした『おかしな』力を使って生きている人間がいくらもいる。
「だから、そんな仕事をしなくても生きていけるだろ? 働かなくたって、慎ましやかに生きていけばいいだろう」
「ジョン。……それは死人の考え方だよ。私は他人の人生を売る仕事で生きてきた。それが私の人生なんだ。自分が求められる生き方に、ある種の誇りを持って生きてきた。その仕事を失ったんだ。私も君と同じく、人生を失ったんだよ。でも、君と違ってそれは自業自得なんだ」
テープの間から覗く目は、悲哀の光を湛えていた。ジョンは彼女のその目を見ながら、会社にいた死んだような目の同僚達を思い出していた。
アメリカの企業というのは、とかく同調圧力がまかりとおる村社会だ。仕事中はもちろん、プライベートもまた他人に気を使って当たり前だ。ジョン自身も、休日に行われるバーベキューに、何度出鼻をくじかれたかわからない。
それでも、ここまで絶望して暗い目をする人間を、ジョンは見たことがなかった。
「なあ、君『人生を買い戻す連中』についても話してたな。一体どういうことだ? 人生を買うのも意味が分からないが、買い戻すっていうのも意味が分からない」
「君、音声認識ソフトって使ったことあるかい?」
「ああ。今じゃ家電にも積まれてるよな」
「あれと似たようなものさ。私の作った人生のテープを、対応してる機械に読み取らせて再生する。テープに書き込むまでの人格はそこに宿っていて、話ができる。壊さない限りは、その人生を所有できる。ジョン、人間の究極の欲望というのはね、同じ人間の生殺与奪を握り、『所有』することなんだ。だから私の商売は成り立っていた」
「じゃあ、買い戻すっていうのは……」
「思うに、誰かの人生を探しているのかもしれない。お目当てが誰かは分かりかねるが」
彼女を糾弾するのは簡単だったが、否定も肯定も出来なかった。ジョンは立ち上がった。もはや彼女に彼が出来ることはないだろうと思ったのだ。
「君に俺の人生を抜くように頼んだのは誰なんだ?」
「私もプロだ、そんなことは漏らさない――と言いたいところだが、廃業してまでそんなプライドを持つ気はないな。バザリオのMDをやっているロナルド・ホーソーンだ。理由なら多分君の方が察しがつくだろう」
名前を聞いてイラつくのは初めてのことじゃなかった。
ロナルドは最低のクズだ。経営のためなら、人の命など興味がない、と言い切るような輩だ。彼に表立って楯突くヒラの取締役のジョンが、おおかた気に食わなかったのだろう。
そんなクズの都合によって、俺の人生はまるきり変わってしまったというわけだ。ぎゅう、と握り拳が音を立て、太い血管が怒りを全身に巡らせた。
ぶん殴ってやろう。
それはジョンの思考だったのか、この体の本能だったのかはわからない。少なくともV.Dのように、俯いて諦めるというのはなんだか違う気がした。
「なあV.D。君、その金の使い道も身の振り方もないんだろ?」
「お恥ずかしい限りでね。今は何も考えられそうにない」
「なら都合が良い。俺もそうなった。……でも人生は続くんだ。前に進まなくちゃな。そこで提案なんだが」
ジョンは再び彼女の目の前に座ると、彼女の細い手を握り、生気の薄い目を見つめて言った。
「俺はロナルドのアホを殴りたい。人生をめちゃくちゃにしてやりたい。俺は人生をめちゃくちゃにされたからな。君は今後の人生が見えない――なら、俺に協力してくれ。少なくとも時間を持て余すことはないだろ?」
「君の個人的な復讐に付き合うのは結構だが、どうするつもりだい?」
V.Dは巻いたテープの間からぬるくなったコーヒーを器用に口に流し込む。彼女は白人なのか、黒人なのか、はたまたアングロサクソンかアジア人か――ジョンにはまったくわからない。肌の色も、言葉のイントネーションからも、何も感じ取れない。大企業の役員ともなると、それなりの人間と相対するものだが、彼女からは何も感じ取れなかった。せいぜい、テープと同じ黒髪であることくらいだ。まるで、パーソナルな情報が抜け落ちてるみたいだった。
「その前に――君の能力はテープを口に押し込めば発動するのか?」
「仕事が仕事だったから試行錯誤してきたよ。正確には、上下の歯で私のテープを噛めば、そのまま奥までテープが潜り込む。私が爪を折った8mmテープなら同じ仕様になるし、同じことが起こる」
「オーケー、十分だ。考えがある。そのテープを要は噛めばいいんだろ? なら、サンドしてやればいい」
「サンドね」
「ロナルドは昼食に必ず、C'sってチェーンのチーズバーガーセットを食べる。昼食ごときに判断力を使いたくないんだとさ」
ジョンは吐き捨てるようにそう言った。そうして溜めた『判断力』とやらで、自分を死に追いやったことを考えたら、いくらでも怒りが増すような気さえした。
彼の脳裏を、ママの記憶がよぎった。この名前も知らぬ男の、筋肉で覆われた肉体とは及びもつかない贅肉だらけの中年の肉体はもう戻らない。亡くなったママも、近所の行きつけの店も、これまでの友人たちも今のジョンをジョンとして認識することはないだろう。
ハンバーガーショップのガラスに映った自分は、それほどこれまでの自分とは異なるものだった。悲しみと同時に、ロナルドへの怒りがぐるぐる渦巻く。
「ジョン?」
「……なんでもない。V.D、チーズバーガーセットを買ってくれ」
「私がか?」
「君がだ。さっきも財布見たろ。この男、財布は持ってるがSSNカードしか入ってないんだぜ。ジョン・J・ジェイムソン……名前が同じなのは助かるが」
V.Dは渋々といった様子ではあったが、C'sへ並ぶのに付き合ってくれた。妙なカップルに見えたことだろう。店員が客を捌いている間、ふとV.Dはジョンを見上げて言った。
「……ジョン、私の経験上、自分の肉体を失ったというのは結構な喪失感があるものだ。ほんの一部でも自分が欠けると、人は失ったことを悲しむ。君はそういうふうに見えないが」
「死んだと言うには生きてる実感がありすぎるからな」
ジェイムソンには同情するが、ジョンとしては生きている。それに憎むべきはV.Dに自分の間接的な殺害を目論んだロナルドだ。
昔から楽観的だと言われ続けてきたし、自分でもそんなものだと思っている。こんな状況でも自分の芯が通っているのには、ジョン自身も少し驚いていた。
「ついでにビッグバーガーが食える」
「そんなに食べなかったのかい?」
「五十を超えてからは全く。胃がもたれるんだ。君も気をつけろ。好きなら今食え。この体なら三つはペロッといけそうだ」
昼飯を済ませ、チーズバーガーセットの入った紙袋を持ち、ジョンにとって見慣れた本社ビルの前へとたどり着く。
衣装はV.Dの奢りで買ったデリバリーサービスの制服だ。バザリオの社員は出不精が多い。かくいうジョンもそうだった。
「やあ、ティム」
裏口の警備員――白髪混じりのやる気のない老人は、新聞紙からわずかに顔を上げ、指で入館リストにサインをするよう促した。
いつものデリバリーだと思ったのだろう。
V.Dと共に適当なサインを済ませると、そのままエレベーターに乗って役員室のある最上階フロアへ。
不思議な気分だった。ジョンにとっては馴染み深い会社の中であるはずなのに、行き交う同僚達はこちらに目もくれない。
『MD ロナルド・ホーソーン』とプレートのかかった扉へ手を掛けようとすると、V.Dはその手を静かに制した。
「何だよ」
「後ろを見ろ」
二人が振り返ると、そこにはフロアを通りがかった秘書のロレインが驚いた顔をしてこちらを見つめていた。
「貴方がた、こちらは役員フロアですよ!?」
「いやその、ロレインくん実は……」
咄嗟にジョンの口をついて出た名前に、ロレインは面食らったようだった。
今の俺はジョンじゃない。
ロレインにとっては、単に不審者が自分の名前を知っているという奇妙な場面に出くわしたことになる――。
「失礼」
すぐに動いたのはV.Dだった。容赦なくロレインの頬を掴むと、僅かに開いた口の間を見逃さなかった。袖から滑り落ちた8mmテープが口に差し込まれ、彼女の目がぐるぐると回転を始める。
人生を抜き取りにかかっているのだ。
「やめろ! 何も――」
V.Dは俺に向かって、しいい、と指を添えて沈黙を強制したかと思うと、ぼそぼそと彼女の耳に向かって何かを話し始めた。十秒もしないうちにテープを抜くと、今度はまるでデリバリーサービスの人間みたいに挨拶をし始めた。
「いつもありがとうございます、ロレインさん。このフロアまで上がれるようにしていただいてとても感謝してますよ」
「アー……そうですよ、ね? やだわ、大きな声出して」
「MDのロナルド氏は?」
「じき戻られるわ。わたし、なんで変に思っちゃったのかしら」
ロレインはバツが悪そうにそう言うと、何事もなかったかのように去っていった。何が起こったのか、さっぱりわからない。確かなのは、ロレインの『人生』が入ったテープを、V.Dがシャツで拭っているということだけだ。
「……何が起こったんだ?」
「記憶の一部を書き換えた。人生そのものを抜くのは時間がかかるが、こちらは十秒もかからない」
「そんなこと、簡単にできるのか?」
「できるとも。仕様の穴をついたバグ技だがね。人生を抜くのは結構時間がかかる。その最初の数秒、記憶の一部を書き出した空白に、新しい記憶を直接吹き込むんだよ。原始的だが、こっちのほうがスマートで好きなんだ。慣れてるし」
V.Dは事もなげにそう言うと、新しい8mmテープを取り出して、巨大なチーズバーガーの中に挟み込んだ。じっくり見れば分かるだろうが、ロナルドはメシの時間でもスマホを手放さないので、チーズバーガーの中身がどんな色に変色していようが気づかないだろう。
V.Dは手についたチーズソースを舐め取りながら、こちらを見て言った。
「で? ここまで来たら教えてくれていいだろう。ロナルドの人生を抜いてどうするつもりだい?」
「決まってる。脅しをかけるんだよ。抜いた人生は一度なら別の肉体に上書きできるんだろ? 元の肉体に戻すのだって構わないはずだ」
「試したことはないけどね。それでどうするんだい」
扉を開けると、シンプルな机とやたら人体工学的に気を使われた椅子が置かれた部屋だった。ムカつくことに、バーカウンターなんてしゃれたものまで設置している。
「それで終わりさ。いや、退職金はもらおうかな」
「君ね……いきあたりばったりにも程がないか? そんなことするくらいなら、もっと効果的なやり方がいくらでもある。復讐がお好みなら、私のツテでモノを流せばサイコパスがダース単位で食いついてくれるぞ」
「仕方ないだろ。それも人生さ。復讐なんてするのは初めてなんだ。それともなにか? やることが全て正解じゃないといけないって憲法で決まってるのか?」
ジェイムソンの肉体が、ジョンの怒りの導火線に火をつけ、その行動の結果がこれだ。愚かで短絡的と言われればそれまでだろう。だがしかし、理不尽になんとか一矢報いてやろうとするのは、正しいか正しくないか以前の問題だ。やらなくてはならないことだ。
ロナルドの顔にクソを塗りたくってやること自体に、意味なんてない。だがそれを達成できなければ、次になんて進めないのだ。
「……誰だ君たちは」
そのクソ野郎の顔が、目の前にあった。
ロナルドは数人のスーツの男たちと一緒に、目を丸くして部屋の入り口に突っ立っていた。
「アー……どうも、デリバリーサービスです。C'sのデラックスチーズバーガーセットをお持ちしました」
「今日は頼んでないし、デリバリーサービスがここまで来ていいルールはない。誰だ?」
スーツの男達はそろり、とジャケットの裏に手を差し込んだ。何を意図するのかを最も早く察したのは、V.Dだった。彼女は袖口からテープを滑り出させると、そのままジョンの口にテープを放り込む。
銃のマガジンが覗いた瞬間、ジョンは自然と、両腕でガードを上げて突進を始めていた。
「始末しろ!」
ロナルドが叫ぶのと同時に、ジョンは右ストレートで一番先頭の男を殴り倒していた。二人目の男がトリガーを絞り、マズルフラッシュと共に銃弾を吐き出し窓ガラスを穿つ。
その射線を縫うように頭を揺らして、ジョンは左フックで銃を持った手を殴り、右アッパーで顎を殴り上げる。男の体が浮いたところを体ごと横にスライドして、右からボディストレートを放ち、最後の一人を昏倒させた。十五秒もかからなかった。それと同時に、テープが自らの意思を持ったみたいに糸を引いて口の外へ飛び出る。一通り咳き込んだあと、信じられないといった様子で拳を見つめた。
「俺、学生時代は格闘技とは無縁だったんだがなあ」
ジョンは昏倒してその場に蠢くスーツの男達にしゃがみ込みながらじろじろ見下ろす。普段ならこんな場ならビビって動けないはずだ。
「ジェイムソンの体と相性が良かったんだろうな。そのテープは3回戦ボーイのボクサーの人生の一部だよ」
V.Dはテープを拾って袖で拭ってから、こちらにそれを見せた。テープのタイトルは『アイ・オブ・ザ・タイガー』。
「……曲が聞けるのか?」
「バカ正直に誰誰の人生なんて書いたら気持ち悪いだろ。そこから連想される曲を付けてる。ちょっとなら実際に聞けるよ」
「言われ慣れてるだろうが、変な力だな」
「まあね」
腰が抜けてしまったロナルドは、尻もちをついてなんとか外へと逃げようとしているところだった。恐怖からもはや声も出ないといった様子だ。ジョンはつかつかと歩いて行って、彼の首根っこをひっつかんで引きずり、デスクに腰かけて彼を見下ろした。
「さて、ミスター・ロナルド。自己紹介しよう。おれはジョン。彼女はV.D。端的に言って頼みがある。このチーズバーガーを食ってもらいたい」
目の前に差し出したC'sのショッピングバッグは、既に熱を失っていた。ロナルドは恐る恐るその中身を取り出すと、いつも食べているチーズバーガーが姿を現した。
「な、何のマネだ……うちのサイトの利権か? アレは先方が手を引いて、なんにもならなくなったんだ。俺を突っついても金には……」
「利権? 金はいらん。欲しくもない。『ジョン』は恐ろしい思いをしたぜ。あんたにもぜひ同じ思いをしてほしいのさ」
挟まっているソースまみれのテープが、床にからりと転がったのを見て、彼は全てを察した。同じ名前の人間を一味違った方法で死に追いやったはずだ、と。
「まさか『ジョン』って……ジョン・リビングソンか、お前!」
「へえ、冷や飯を食わせてた連中の名前を覚えてるのか? その様子だと、俺がどういう目に遭ったかは理解してるようだな」
V.Dはテープについたチーズソースを容赦なくロナルドのスーツになすりつけてから、口に向かってそれを差し出した。ひっ、と小さく声を挙げたのを見て、彼女は少し笑った。
「彼は偶然売られる前に別の体に入ったんだ。残念ながら君にその『偶然』はないよ。私もひとつ、人を所有しようと思っていてね」
息が荒くなったロナルドを見て、V.Dは更に話を続けた。
「彼は怒っているよ。当然だ、人生を失ったのだからね。だが私も鬼じゃない。ひとつ取引しようじゃないか」
「な、何をだ」
「ジョン。どうだい。私に預けないか」
V.Dのどこか芝居がかった調子に、ジョンはピンと来たものがあったのか、厳かな様子で頷いた。
彼女はそれを見て、少しだけ笑みを見せて、舞台役者のように大げさな身振り手振りで話を続けた。
「よし。ミスター・ロナルド。君の立場を守ろうじゃないか。その代わり」
「そ、その代わり?」
「この会社のフリマサイト事業を切り離して分社し、私とジョンに株式を売れ。手続き上、君なら何も問題ないはずだがね……?」
「フリマサイトなんて欲しかったのか?」
ジョンは『My way』のラベルが貼られたテープをもて遊びながら、V.Dに尋ねた。二人を通り過ぎて、警察官が会社のロビーへとなだれ込んでいく。間一髪だった。ロナルドの部屋から響いた怒号に驚いて、誰かが通報したのだろう。
「気になることがあってね。まさかとは思ったが、この会社に来てようやく分かった。バザリオは人身売買組織の温床になってたのさ」
彼女はテープをジョンから取って、スーツの懐へとしまい込んだ。とんだ皮肉だった。自分の会社の事業であるフリマサイトに、自分の人生が出品されるなんて。
「世間は狭いな」
「そういうことだ。だが今日になって、テープを買い戻している人物が現れ、組織はそれに危機感を抱き、手を引いた。私はクビになった。しかしバザリオを買えたのはありがたかったな。資産は半分になったがね」
「目的はなんだ?」
すでにあたりは暗くなり始めていた。
目についた小さなダイナーの扉をくぐって、ボックス席に陣取る。やる気のなさそうな給仕の女にコーヒーを注文すると、一分もかからずにどろりとしたコーヒーが湯気を立ててテーブルを滑った。
「目的なんて大層なものじゃない。ジョン、これは君への罪滅ぼしのようなものさ。私は君の人生を奪った。これが対価に見合ってるなんておこがましいことは言わないさ。だがひとつ頼みがある」
まずいコーヒーだった。
それでも、ジョンは彼女のためにその頼みを聞いてやろう、なんて気になっていた。これまでの人生に執着がないとは言わないが、ロナルドを出し抜いて新しい人生が手に入ったのだ。彼女なしにはできなかったことだ。
V.Dにだって、新しい人生が必要だろう。
「頼みって?」
「『買い戻す者』の情報がほしい。バザリオの利用者はカタギの人間ばかりだ。出品についてはカモフラージュを重ねて、万が一にも間違いがないようにしてきた。そもそも出品ページにたどり着いても、たかがテープに何百万も出す連中がいるわけないんだ」
「その困難を突破して人生を買い漁ってるって異常を検知して、すばやく手を引く判断をしたってわけか」
「そうだ。組織はあくまでサイトの利用者だ。バザリオ内部の人間じゃなきゃ、顧客の情報は分からない。となれば、中に飛び込めば分かることもあるかもしれないというわけさ。君の復讐を手伝ったのは、そこまで計算したからだよ」
熱いコーヒーが喉を通る。V.Dは彼の『裁き』を待っていた。勝手に人生を奪っておいて、許されざる振る舞いだ。その上でなお、頼み事をしようだなんて。
彼女が悪党になったのは、それしかできなかったからだ。大人になるまで、どういうふうに生きてきたのか説明できないし、能力を利用するものに乗っかる他生きていくすべもまた知らなかった。
訳知り顔の態度でそれらしい仮面を被れば、人は勝手にこれまでの人生を膨らませる。V.Dの人生は虚像そのもので、その過程も流されるままでしかない。
だから誰かに頼み事をする、ということ自体、彼女にとっては初めてのことで――挑戦のようなものだった。
「水臭いことを言うなよ、君。俺は君に新しい人生をもらったんだぜ。まあひどい目にはあったが、それも人生さ。喜んで協力するとも」
ジョンはそう言って、手を差し出した。その意図することが分からずに、V.Dはコーヒーを啜ってから首を傾げる。
「さっきのテープ、出してくれないか」
ロナルドの人生――その一部。彼が誰に脅され、なぜフリマサイト事業をジョン・ジェイムソンに売り渡したのかは、もはやこの中にしか入っていない。
V.Dは黙ってそれを渡すと、ジョンはそのままそれを持ってカウンター側のカセットコンポにテープを突っ込み、再生ボタンを押した。
フランク・シナトラの声が、ノイズに紛れて店内に響く。サビが終わった頃に、突然それがプツンと途切れた。店の中の連中もどこかガッカリした様子だ。ジョンも。
「……全部は聞けないのか」
「歌手じゃないからね、私は。覚えてるところまでしか録音されないんだ。人生のテープは一部だけだとすぐ切れるし。まあ犯罪の証拠だ。無くなってちょうどいいだろ。それとも君、全部聞きたかったのかい」
「まあな。お袋の腹の中からのファンなんだ。それよりV.D、顧客情報ならすぐ追えるぜ。あのサイトのデータベース構築は俺が主導でやったんだ。アクセス権限も、経営者になったんなら手が後ろに回らない方法ですぐ手に入る。まあコーヒーでも飲んで待とうじゃないか」
コーヒーの香りが漂うダイナーの中で、店の中の喧騒に身を任せただそこにある――V.Dにとってそれは新鮮な体験だった。夕日が窓の中へ差し込んできて、彼女の影が床に伸びていく。
不思議だ。私は、自分の影なんてじっくり見たことなんてない。影と夕日のコントラストが妙にカラフルに感じた。
「……V.D、来たぞ。買い戻している人間の情報が」
ジョンの差し出したスマホの画面には、その顧客の名前が載っている。『ケイト・パレツキー』。住所は――。
「ここから2ブロック先のアパートメントか。オールドハイト内に住んでいたとはね……」
「どうするつもりだ、V.D」
彼女は立ち上がり、その場に代金を置いた。ジョンはそれを汲み取って、ドアベルの音を鳴らす彼女の背中を追った。
ケイト・パレツキーの部屋は、なんてことのない町の一角にあるアパートメントだった。強いて言えば、綺麗に掃除されていて、どこか生活感がないことくらいか。
「V.D」
ジョンに促され、彼女はドアベルを鳴らした。
しばらく経ってから姿を現したのは、人の良さそうな、白髪頭の老婆だった。歳の印象とは真逆に、その背中は一本筋が通っていて、目の光にも知的なものが感じられた。
「……あら!」
「あー……ケイト・パレツキーさん?」
「ええ、ええ。そうよ」
V.Dはなんといったものか言い淀んだ。それを察したか、ジョンはできる限り穏やかな口調でその言葉を引き取った。
「ケイト、僕はジョン。彼女はV.D。妙なことを聞くようだが、最近バザリオってサイトでテープを買っていないかい?」
彼女はジョンに笑顔で手を差し出し握手をしてから、二人を部屋に招き入れた。落ち着いた一人暮らしで、CDやレコード――そしてカセットテープが入ったディスプレイ棚がところ狭しと並んでいる。
ケイトは二人をテーブルに座らせると、温かいアップルティーを淹れてから、口を開いた。
「その様子だと、本当に私のことは覚えていないのね? ヴィッキー」
その言葉が自分を指すものだと気づいたとき、V.Dは猛烈な空虚が自分の心を襲ったような気がした。それは草で覆った落とし穴が風に吹かれて見つかるのに似ていた。
「私は――」
「ヴィクトリア・D・パレツキー。私のヴィッキー。やっぱり覚えていなかったわね。仕方ないわよね。それがあなたの選んだ『人生』なんだもの」
「ケイト。どういうことなんだい? 分かるように教えてもらえないかな」
彼女はゆっくりと棚からテープを取り出すと、静かにそれを机に滑らせた。聞いてもいないのに、V.Dはそれが『自分のもの』だと分かった。
これは自分の人生だ。私の一部だ。
「ヴィッキー。あなたはなつかしい音楽が大好きな子供だったのよ。その果てにおかしな能力を身につけた。他人の人生を抜いて、音楽テープにしてしまう――おばあちゃんは、そんなことをしちゃだめと何度も言ったけど……あなたは若くて無鉄砲だったの。ビッグになりたい、なんて言って――」
もう何も聞かずとも、彼女は理解していた。
「私は――私であることを捨てて、これまでの記憶を抜いたのか。私は……『自分から人生を捨てて』、こんな人生を歩んでいたって言うのか……」
ショックだった。自分で人生に絶望しておいて、それが自分で選んだ人生であることさえ忘れていたなんて。
「ケイト。一体どうやって彼女のテープにたどり着いたんだい?」
「最初は偶然だったの。フランク・シナトラのテープが欲しくって……この子も好きだったしね。そしたら、テープから人間の声がするじゃないの。それでピンと来たの。あの子がやってるんだって……私、お金だけはうんと余っているのよ。一気に買い占めたらヴィッキーも気づくんじゃないかしらって。あの子が会いに来てくれるんじゃないかしらって――そしたら、本当に会いに来てくれた。冥土の土産を買うなんて、いいお金の使い方をしたわ」
ケイトはそう言って、朗らかに笑った。V.Dもジョンも、同じように笑った。世間は狭い。そして、なんて偶然の巡り合わせだろう――。
「ケイト」
「やだわヴィッキー。おばあちゃんでいいのよ。ね、ヴィッキー。あなた教えてくれたわよね。一度抜いた人生でも、もう一度なら入れられる」
ケイトはもう一度、机の上のテープをV.Dの目の前へ滑らせた。
「これはあなたのものよ。あなたにとって必要なはず。ぜひ使ってほしいの」
カセットテープは、想像以上に軽かった。ラベルテープを見ると、そこにはフランク・シナトラの名前。おばあちゃんも好きで、たぶん私も好きだった――。
「おばあちゃん。ありがとう。感謝するよ」
「……V.D?」
手に持ったテープの行先は、彼女の口ではなかった。オープンボタンを指で押すと、古いラジカセのメカニカルな口が、彼女の人生を迎えた。
「たぶん、私が人生を手放したのにも理由があったんだと思う。いつか捨てたものを拾いにくるなんて考えてたのかもしれない。それまでは邪魔だったのかも……」
ジョンがいつの間にか立ち上がっていた。しかし彼はそれ以上のことはせずに、こちらを固唾をのんで見守っていた。過去を捨てたまま生きてきた人生こそが、V.Dの人生そのものであるということも知っているから。
「でも、それはその選択をした自分を捨てることだ。できないんだよ、おばあちゃん。……『それも人生』なんだ」
テープを指で押し込み、再生スイッチを入れる。イントロがゆっくりと流れ出して、フランク・シナトラが朗らかに歌い出した。
『人生なんて、そんなものさ……』
Sell a Life That's Life 終
というわけで、逆噴射小説大賞2024に投稿した『人生売買人生』を改題した短編小説でした。
曲のチョイスでお分かりいただけると思いますが、今回の小説は『JOKER』『JOKER フォリ・ア・ドゥ』に強い影響を受けて制作しました。映画で使われる音楽に執着しがちなので……。お楽しみいただけたでしょうか。フォリ・ア・ドゥも結構いいのでみんな見てください。
明日は一郎三兄弟殿(しんがり)の梶原一郎さんの作品です。どうぞお楽しみください。