『万引き家族』を観て
家族と一緒にいても、誰とも心が触れ合わない気がする。自分のことに関わってほしくない。なぜか話をするだけで腹が立つ。とにかく放っておいて欲しい。
それは僕が特殊だったのか、それとも多くの人が家族と一緒にいて経験することなのだろうか。なぜ僕の家族はこんなにうっとうしいのだろうか、なんでこんな人が親(兄、姉、妹、弟、子供、その他)なのだろうか、なぜ自分はここを出ていかないのか、この関係から離れられないのか、離れたいけど、できない。ならばむしろ表向きは普通に接して、少しでも内部にくい込んできたら、仕方がない、無視しよう。でも本当はそんなふうにしたくはない。映画を観ながら、そんな葛藤の記憶が頭のすみにずっとあった。
この映画の家族は血のつながりのないメンバーで、拾ってきた子供とか、ほんとの共犯関係の夫婦とか、そういう、自分の家族に比べたら頼りないような縁でつながっているメンバーだが、むしろそのせいか、なんとなく風通しが良く、どす黒い葛藤みたいなものがなく、ほのかな暖かさを持っているなあと思って画面を眺めた。うらやましいような気持ちさえ抱きながら。あるべき家族の姿みたいなものから遠く離れた自由さ。外の社会から隔てられているということが断熱材のように、家族の暖かさを保っているような。
血縁や親子関係の、または社会の枠からはみ出してしまった人が集まって、家族のような集団を作って暮らす。彼・彼女たちを結びつけるものはなんだったのだろう。自分で選んで家族になったのか、それともやっぱり僕と同じように、そこから去ることが難しかったのか。無機質な外の社会に、バラバラに吸収されてしまったメンバーは、もう家族でなくなったのだろうか。絆はかろうじて残っているのか。最後に二人の祥太は親子をやめることにしたけれど、それさえなお、親の子離れ、子の一人立ちという、家族における儀礼の一つであるようだ。