【詩評】園イオさんの詩のこと

先日、詩誌「凪」第五号を読んでいて、園イオさんの「若き亡者」という詩にぶつかったとき、大げさな表現でなく、私は正直、ぶったまげてしまった。なんだ、これは。こんな詩を書く人がいるのか。詩に関しては浅学無知であるにしても、これではいくらなんでもひどすぎる、と己を深く恥じたことであった。

とにかく、言葉が、走っている。躍動している。そのリズム感、深いところに流れる音楽性などに、私はすっかりやられてしまったのである。それはすべて、自分の詩にはないものであった。なぜか私は、小林秀雄の「モオツァルト」の有名な一節を思い出した。「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい」というやつである。

「西日に照らされた胡蜂の羽/翻るその刹那をとらえても/常世へと抜けることはかなわず/笛の音とともに/橘の花冠を載せたあの女が/糸をたぐってやってくるその日まで/風が吹き抜けるこの岸辺で/ひとり待つ」。背筋が寒くなるような荒涼たる景色。それなのに、豊饒な世界を感じるのは、古典を下敷きにしているからだけではあるまい。

古典はいつも現代である。日本語は情念の世界である。その重層性が、園さんの詩の世界をかぎりなく豊かなものにしている。園さんはすでに、「詩と思想」2024年4月号において、「現代詩の新鋭」にも数えられている一人で、もはや、私などが賢しらに何かを述べるような詩人ではない。しかし、どうしても何かを書きたい、書かせてくれと思わせる豊かさが、園さんの詩にはあるのである。

同誌に掲載された「濡れ女(オンディーヌ)」も、震えるほどよかった。「明日からまたあの人は/ひとつひとつ取り出しては光に透かしたり/胸にあて独りうめくだろう/夏が終わって寝乱れた白粉花の暗い叢から/名残の南風が立ちのぼる/まだ瑞々しい小さな花を一輪ちぎって/くるりと指輪にしたら/再び井戸の底の曇った鏡に飛び込んでいく」、もう、存分に、大人の艶めく情念の世界だ。

園さんの詩を読んでいつも感じるのは、そのカッコよさだ。たんに、古典にインスピレーションを受けて書いているというのではなく、完全に、いまを生きる園イオの世界にしてしまっているところが、である。血肉になった言葉。知的に構成された世界。そんな園イオさんの代表作は、「詩と思想」2023年10月号の「山姥(やまうば)の娘」であろう。その土俗性はいかんなく発揮され、言葉の視覚的な配置(まるで山なみそのものである)、「ざわ わん」「ざん ざんざざん」といった独特のオノマトペ、どれをとっても素晴らしい。日本語特徴や美しさをよく知っている人の詩である。

この詩は、「駆け降りて行くゆく/駆け降りてゆく」という繰り返しで結ばれる。これに、詩人としての園イオが重なって来るのは私だけであろうか。園さんは、詩の世界を疾走している。言葉とともに太古の昔から現代を駆け抜けているのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?