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渡米42日目 なんだか置いていかれた気分に・・・



今日は16時からいよいよ5週目のFiction Film Directing(フィクション映画監督クラス)。このクラスでは、秋学期の最後に実在する映画のワンシーンを、それぞれの学生が監督することになっている。

今日の課題はスクリプト・アナルシス(脚本分析)。登場人物のセリフの一つ一つの裏側にどんな言外の意味(サブテクスト)が含まれているかなどを分析し、それを提出する。監督術のテキストにもそのメソッドが事細かく記されていて、それを読んこんだ上で、課題に取り掛かった。教授のジュリアからも20項目近い質問が書き込まれていて、全てに答える必要はないとは言うものの、やはりできる限り答えたいと思い、クラスの始まるギリギリまで課題と向き合っていると、提出の締め切りを1分すぎてしまいブルーな気持ちになった。

だが、そのプロセスで学んだことは、もちろん僕の脚本分析が当てはまっているかどうかわからないが、その分析に正解不正解はなく、いかに多くの問いを立て幾つもの方向性の異なる答えを用意して、監督として実際の現場でのディレクティングに臨むことができるかということだ。芸術や表現には答えがない。その奥深さと底知れない沼のような深みにはまりこんでいくような熱気と恐怖を同時に感じずにはいられない。

今日のクラスには、SAG(アクターズギルド・俳優組合)の担当者が来てくれていて、これから実際にシーンを撮影するにあたって、ボストンのSAGに所属しているプロの俳優に呼びかけることになるのだが、その際のキャスティングの手順や耳慣れないSAGそのものの仕組みについて説明してくれた。

その後、先週に引き続き、課題テキスト「Directing Actors」(俳優の演出)の中から、脚本分析に関するチャプターについて議論が始まった。今日はクラスメイトのファビオラがディスカッション・リーダーを務めたが、(おそらく彼女の声が小さくて聞き取りにくいのものあるが)投げかけてくる質問の意味が全くわからず、どうやら周りの生徒は理解している様子で、置いて行かれてしまっている気分になった。なんとか話の途中から趣旨を掴んで議論に参加するが、まだまだ本を深く読み込めていないと感じる。二日前に読んだのでかなり忘れてしまっているというのもあるかも知れないが、正直、力が足りないと感じる。

さらに監督クラスには10人の学生がいるが、そのうち8人は僕が選んだのとは別の映画の脚本「Martha Marcy May Marlene」を監督することに決めていて、そのため授業の中で多くのプレゼンがその映画のために割かれていてなんだか置いて行かれた気分になる。僕が監督する映画「Pariah」には「社会ののけ者」いう意味があるのだが、なんだかのけ者になってしまったかのような気分にさえなってくる。加えて、「Pariah」にはキスシーンがあり、実際の映画の設定年齢は黒人の高校生なので、果たしてボストンでどれだけの俳優の選択肢があるのか。できればSAG(俳優組合)に属しているプロの俳優と仕事ができた方が経験値の少ない監督としては、学ぶことが多いはずだ。

「おそらくその年齢層でSAGに所属している俳優は少ないのではないか」

授業中にそのことをジュリアに相談すると、そのような返事があり、エマーソンの役者志望の大学生に声をかけてみるのがいいのではないかとのかなり素っ気ない返事が返ってきた。木曜日にジュリアのオフィスアワーがあり、先週から面談を予約しているので、その際に詳しく相談してみることにしよう。不安が頭をもたげて仕方がないまま、5周目の監督クラスが終わった。

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