溶けた毒

いつだったか、大自然を見た気がした。地平線を縁取る白金の陽光がふさふさと生い茂る山を突き刺し、鳥はそこから逃げるようにして飛び去った。熟れたラズベリーが毒々し気に大地へと捧げられる。朝露を転がすジャスミンは霧の中に溶けだし、隠し通していたはずの毒素は私の肺を犯した。けもの道には赤子の小指ほどの小枝が残されており、目的地も分からず機械的に歩む生命に踏みつぶた跡があった。森じゅうから溢れるむっとした臭いからは糞と、某かの生命に染められた水を感じさせた。幹の皮の下は響き渡る森の慟哭を孕み、ヘドロを洗ったような色の葉が所々に張り付いていた。まるでそれらが悲哀を押し殺すかのように。ノイズのような虫があちらこちらに蔓延る。数える事すらままならないほどの繊細な足は、広大すぎる大地と植物とを伝い、やがて黒鉄のナニカは静かに還った。私はどこにいるのだ。ここはどこだ。フロックコートを汚しきった私は、北緯10000°の世界に倒れた。土からは故郷の匂いがした。腐ったキャベツと薄汚れた油の匂い。あの頃身に着けていた手袋は麻製だった。今は見る影もないが、出立したときはそれがリネンの手袋になった事は誰の目にも明らかであった。残してきた妻と子供は今どうなっているのだろう。彼女たちが生活に困らないだけの土地は与えておいた。その他館に奉られてきた財産はきちんと守られているだろうか。よくよく考えれば彼女も頭の悪い女だった。結婚した当時はこの世の何よりも美しく聡明にかんじられ、まさに彼女は私のハダリーに相違なかった。しかし時が彼女を劣化させたか、はたまた厚かましいその仮面が鬱陶しくなったのか、結婚した当初の薔薇のような色の頬は、2年後には私の掌の形に沿っていた。柔らかで繊細な、シルクのような頬を叩くのは私もつらかった。想像してみてほしい、この世で美しかったはずのものが醜い汚物に成り下がっていたのだ。その怒りはかのシャプール館をめちゃくちゃに破壊するほどなのだ。曇り一つなかった鎧は頭部が階段下に転がり、東洋から取り寄せたカップはひび割れ、その破片でいつくもの傷を負った。嗚呼、美しかったころのシャープル館が恋しい。私は幼少期から館の宝だった。否、私はトロイト村の宝だった。誰もが私に恭しく接した。父の厳格さは、皺ひとつないメイドの衣装や、埃一つとしてない床に表れていた。そして父は、厳しくも確かな愛情で私と世間とを順応させてくれた。彼の書斎にはホメロス、オデュッセイア、クセノフォンが連なり、私は週に二時間それらを音読することが義務付けられていた。私にとって文学は父が授けてくれる叡知そのものだった。古代の詩人が紡ぐ言葉は金の鎖として私を未知の世界へ誘い、叙事は生命の賛美をハーモニーとして私の腸に撫でつけ、修辞は産毛の生えた耳に柔らかな愛撫を施した。そしてそれは父も同じだった。彼は私をその硬い膝に乗せては、私の柔らかな髪をゴツゴツとした武人の手で恐る恐る撫でてくれた。私は父が愛した文学を以て父を愛する術を知り、父もまた彼の父(つまり私の祖父)が愛した武芸を以て父を愛したのだった。オイディプス王よ!貴方は私と父を体現する存在そのものだ。それに気が付いたのは14の夏だった。いつものように朝焼けの肌寒さがベッドから父を急かしたとき、そしてその日初めて私の部屋に導入された中国製の鏡が、父の背中に刻まれた深い刺し傷を写したとき、私は悟ったのだった。通常の少年であったならばそのタイミングで己が人生の悲劇に嘆くかもしれない。しかし私は特別な子供であった。あろうことか、私は父の傷を優しく撫でながら、歓喜の念に打ち震えたのだ。私の手が自らの神秘に触れたと感じた父は、酷く驚いた。青筋を立てて私のほうへ振り向くと、私が恍惚とした表情で父を愛撫していることに気が付いた。そうして父は、私の潤んだ瞳が父の神秘を湛え、甘美をしみこませた糸がそれを尊いものへ織りなしていく様を見たのだった。それからの父はまるで獣と色欲の悪魔とに同時に取り付かれたようであった。これ以上は語るのをやめておこう。

父が死んでからはシャプール家は斜陽だった。艶やかな芳香を漂わせた花束は腐った木材と同じ色になり、それを私の目から遠ざけようとする人間もいなくなった。最愛の人間も死に、愚鈍な女とうるさい子供だけが私に残された。しばらくして、悲嘆に覆われた館に吉報が届けられた。

父が私のためにと幾ばくかの土地を遺していたのだ。さらに先日叔父が亡くなったことで、直系の相続先を持たない財産はシャプール館に引き取られることになった。しかし私はシャプール家の再興にはそれらを使わなかった。私は財産を丸ごと妻に預け、わずかなパンと紙幣を持って旅に出かけた。


そういう経緯で私はここで死ぬ。もしも悲劇が喜劇に変わるキッカケがあるとしたら、それは観客の退場だろう。今や私の人生劇からは観客が退場した。私はただ一人スポットライトを浴びた状態で、放棄されている。後はステージごと焼却されるはずだ。煉獄に浄化され、私は天国へ行く。ならば今までの悲劇は全て喜劇になるはずだ。喜劇に至るまでの過程が悲劇であったならば私はそれを喜劇と呼ぼう。そろそろ考えが回らなくなってきた。

最後に思い出したのは、プラトンの「饗宴」だった。青年は自意識にその意味を問うているうちに、神々が彼の腕を切り取った。そして獣が彼の足を頬張り、主が頭を抱きかかえた。彼の腰は、魂だけの存在になった父が握りつぶした。そうして青年は一つの大自然に溶けていった。

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