『できない自分』を許してあげる
僕は小さい頃から、できないことがとても多かったです。
跳び箱は六段を飛べなかったし、鉄棒では逆上がりができない。
算数の図形は意味が分からず、テストでは全問不正解。
美術は絵が壊滅的に下手で全く描けない。
食べ物はネギ類全般が食べれないし、辛いものも無理。
こんな風にできないことをあげればキリがなかったし、大人になった今もそれは変わっていません。
以前はそんなできない自分がどこまでも憎くて、悔しくて、惨めで。
特段の努力をせずとも『何となく』でできてしまう人を見るたびに、恨めしく思う気持ちを何度抱いたか分かりません。
でも、今はそんな自分を許すことができるようになりました。
僕達はできないことがあることが悪で、それをできるように努力することが良いという潜在的な常識を持っています。
例えば僕の場合は、跳び箱や逆上がりができるように必死に練習しましたし、算数の図形も理解できるように勉強し、美術は下手な絵を少しでも上手くなれるように何度も紙に書いてみました。
食べ物嫌いも「もしかしたら嫌いと思っているからダメなのかもしれない」と考え、とりあえず口の中に入れてみたりしました。
これは学校の先生や親が、僕ができないことをできるようになると嬉しそうな顔をして褒めてくれるのを知っていたので、何とか期待に応えたいと思い頑張ってみたのです。
でも、肝心の僕自身は本音を言えばあまりやる気はありませんでしたし、仮にできるようになったところで何の役に立つのかも分かりませんでした。
それをやる位なら、自分がやっていて楽しいと思えることに時間を割いている方がよっぽど心が充実します。
やりたくないことや楽しくないことを無理してやるほど、身体にも心にも良くないことってありません。
『人には向き・不向きがある』
ということに対して、
「そんなの本人の努力が足りないだけ」
という意見もあれば、
「いや、もともとの本人の才能によるだろう」
という意見もあります。
どちらも正しいのかもしれないし、どちらかが正しいのかもしれませんし、どちらも間違っているのかもしれません。
でも僕としてはそんなことは関係なくて、最も肝心なのは向いていようがいまいが、自分からやりたいと思う気持ちを持っていることなのではないかと思います。
この世の中、たとえ1つや2つできないことがあっても生きていくことはできますし、大きく困ることはないです。
それができないと死んじゃうってことでもない限り、できないことを頑張ってできるようにする必要もないのです。
(もちろんできるに越したことはありませんが。)
僕は大人になった今でも、相変わらずできないことが山ほどあります。
そしてそれは、いまだに日々増えています。
でもそういう時、
「何で自分はできないのだろう・・・」
と落ち込んだり怒ったりするのではなく、
「自分はこれができないんだな。知れて良かった!」
と考えています。
だって人間なんて、何でもかんでもできることの方が珍しいですから。
それに、できないことばかりに目がいくと忘れがちですが、ちゃんとできることもたくさんあるはずです。
なので、できない自分を自分で苦しめるのではなく、そうなんだなってくらいの認識でいられたら、今より気持ちをラクにして生きられるのではないかと思います。
できないことがあるというのは、それだけで劣等感だったり嫌悪感を抱きやすく、またそれを認めるのもしんどい時があります。
さらに自分の近くにそれを得意とする人がいるとなおさら、そういう気持ちを強く感じることもあります。
でも、それも含めて嘘偽りない自分なんだということを受け入れてあげましょう。
そういう気持ちを抱くことも感じることも、決して間違いではないんです。
【できない自分を、許してあげる】
たったこれだけで、あなたの世界は今より広くなるかもしれません。