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天才にも秀才にもなれなかったけど

ふと思うことがある。

果たして世の中にいる人間のうち何人が、天才であるのかと。

ふと思うことがある。

果たして世の中にいる人間のうち何人が、秀才であるのかと。

先に言っておくと、僕はどちらにもなれなかったし、おそらく今後もなれることはない。

天才と呼ばれるにはあまりにも才能が足りず、秀才と呼ばれるほどの並外れた努力の末に身に付けた能力もない。

でも、世の中には間違いなく天才や秀才は存在する。


例えば、僕の小学校の同級生のRくんは、天才だった。

変わり者で、発想が常にこちらの斜め上をいっててその行動も一見よく分からないことをするので「あいつはバカだな」と言う人もいたけど、テレビ番組で出題されているクイズを見て、数秒後には「あー分かったわ」とあっさり正解を導きだしていたし、僕達がどれだけ頭を捻っても考えつかないようなアイディアを出すことも1度や2度ではなかった。

僕は彼と仲が良く行動をともにすることが多かったから、彼のスゴさがとてもよく分かったし、彼にはどうあっても勝てないというのが子どもながらに分かった。


例えば、専門学校の同級生のMくんは、秀才だった。

Rくんのような奇抜な発想やアイディアなど天性を感じるものは正直なかったけど、とにかく努力量が半端じゃない。

それは勉強はもちろんだし、その他の分野でもそうだった。

記憶にあるのは、アニメのこと。

当時僕はオタクで、学校にはオタク比率がなぜか高かった。

最初Mくんはアニメについて、『サザエさん』とか「名探偵コナン」といった誰もが知るような作品しか知らない、オタクでも何でもない状態。

そんな彼に対して、僕を含めて周りのオタク達は、彼にアニメのすばらしさや面白さ、楽しさを話していた。

そうすると、Mくんはそこからアニメについて急激に学び始めた。

その吸収スピードと熱量は誰が見ても並外れていて、家に再生レコーダーがないのに特典欲しさにBlu-rayのソフトを購入するなどして、僕達を驚かせた。

そして、気が付くと僕達既存のオタクよりも遥かに知識を身に付け、深い話をするオタクとなっていた。

この時僕は、彼には勝てないと思った。彼ほどの努力と情熱を以て、何かを学ぶことはできないと思ったのだ。


天才も秀才も、おそらく本人に自覚はない。

自分がどれほど優れた力を持っていて、それが周囲にいる凡人にどれほど劣等感や絶望感を与えているかなんて、分かっていない。

もちろん、それは当たり前で、彼等に非なんて全くない。

彼等は普通に生きているだけだし、彼等にだって苦悩はあるだろうし、悪いことなんて何もしていないのだ。

だから非があるのは、彼等に対してそういう感情を抱いてしまっているこちら側だ。

とはいえ、昔はそれ分かっていても苦しかった。

『なぜ自分は彼等のようになれないんだろう、できないんだろう。』

そんな想いが、常に頭の片隅にあったように思う。

自分では決して手の届かない位置にあるものを、彼等は簡単にその手に持っている。

それが僕をどうしようもなくたまらない気持ちにさせていた。


今でも時折、そんな感情を抱くことはある。

特にSNSが普及した今、少し見渡せば天才や秀才があちこちにいるのが分かるようになった。

彼等を見るたびに、胸に去来するものはある。

でも、彼等のようにはなれないけれど、僕は人生を楽しく生きている。

才能なんて無いし、凄まじい努力もできないけれど、それでも楽しく過ごせている。

だからきっと、これでいいのだ。

別に何かを諦めたわけではない。何かを投げ捨てたわけでもない。

ただ、受け入れることをしただけ。

僕は天才にも秀才にもなれない。なれないけど、なれないからって人生が終わるわけじゃないし、不幸になるわけでもない。単にこれも1つの個性に過ぎない。

だから、僕は僕にできることを必死にひたむきにやるだけでいい。

多分その先に、僕にしか見えない景色が待っている。

別にそれを信じるのは自由だし、何もいけないことはないだろう。

天才にも秀才にもなれない僕だけれど。

そんな人生だって、悪くない。

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今日は天才と秀才について書いてみました。

人間というのは面倒くさくて、自分より優れていると思う人間を見ると嫉妬や羨望といった負の感情が溢れてきます。

でも、そんな自分だって決してダメなんかじゃないんです。

本当にダメなのは、彼等を見て自分と比較し、自らを卑下することだと思っています。

そんなことする必要なんてどこにもなく、自分には自分にしか送れない人生があるんだと、認めてあげればいいんじゃないかなと。

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