見出し画像

さかなのこ

少しモヤるところもあり原作を読んでみたらただただ幸せな世界が広がっていた。
映画だとお兄ちゃんは魚料理を嫌がっていていたけど、原作ではそんなことはなく、むしろ「文句ひとつ言わず食べてくれていた」とあり、あの改変だとお母さんがお兄ちゃんよりさかなクンを優先しているように見えてしまう。
映画ではお兄ちゃんと別居してしまうが、実際は今も一緒に暮らしている。(お父さんとは別居中。)

原作では、TVチャンピオン初登場時に、決勝で負けてしまった(ブイヤベースの出汁に使われてる7種類の魚を当てさせる難問。)さかなクンのために、お兄ちゃんがバイト代を削って、「勝つために高級な料理も食べろ」とフレンチに連れて行ってくれるという話がある。
近所の魚屋さんも珍しい魚が入ったら電話して調理方法を教えるなどして、町を上げての協力体制だったらしい。
そしてそのあと、前人未到の5連覇を果たす。
お母さんが定期を崩して買ってくれたバスクラリネットの、出世払いで返すからと言っていたそのお金も、優勝賞金で返す。
どこのジャンプだよ。


映画の話に戻ると、ギョギョおじさんの家に行くのも、さすがに1人で行くのを親として許すべきではなかったのでは。なんなら最初は一緒に行けばいいし、任意同行されてしまった原因の一端はあのお母さんにもあるように感じた。
もちろん原作ではそんな描写はなく、お母さんはずっと素敵。

さかなクンはたまたま売れたけど、そうじゃなかったらあり得たかもしれない未来としてギョギョおじさんを描くのではなく、売れなくても、ただ好きなものを好きでい続けるだけで幸せだと提示するために描いてほしかった。

でも良かった部分もたくさんあって、のんの瞳の美しさは際立っていたし、ジェンダー設定もアクロバティックなのにいやらしくなくて心地良かった。
あとあのヤンキーたち最高。青鬼大好き。
子役たちもかわいく撮られていたし、もも子との暮らしはとても素敵だった。普通って何?

でも、もも子との生活もお互いがお互いを思うが故に破綻してしまう。

おれがここに書いたようなことは監督ももちろんわかっていて、子供時代は良くても、大人になると社会の中で孤立してしまう天才を描くために映画化したのかなと思った。
さかなクンの綺麗な目を通して世界を切り取った原作をそのまま映画化しても意味がないし、カメラという客観を通して天才の孤独を浮き彫りにしようとした。

映画冒頭の、早朝に漁に出るシーンは原作にもあるが、仲のいい漁師さんの船に乗せてもらって漁を手伝ったあと魚を分けてもらい、その後近くの大学の施設で研究をする、という原作に対して、映画ではTVのロケで漁に出るという設定に変わっており、意図的にカメラマンの冷たい視線が描写される。

小さな水槽に飼われていた金魚を、男に飼われるもも子のメタファーとして提示したように、さかなクンがさかなクンとして生きれる場所はテレビという水槽の中にしかなかったのだ。

だから最後は海に飛び込み人間を辞めて魚に変わって泳いでいく。

結構冷たい映画だなと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?