駄目で元々
「不器用だ」と言われて育ったため そうなのか と思って成長したけれど そうでもないんじゃないか? と思ったりしつつも 不器用だと思い込んでいることが多々あるなと感じた。
何を根拠として「不器用」とされていたのか 今になってはわからない。
幼い頃 特段に不器用であったかと思い返してみるが そういうわけでもなかったと思う。
例えば蝶結び。靴紐を結べない子がいた時には結べるようになっていたし 縦結びにしない方法も繰り返して覚えていた。
なので 他者に比べて遅れをとっていたわけではないのに 何故か「不器用」と言われることが多かった。
言われ続けているうちに「不器用」が個性なのだろうと解釈するようになった。
誰かよりも「不器用」でなくてはいけないような心持ちになり できることをできないように振る舞うようになった。
そうすることで 周囲の評価との整合性を保っていたように思う。
考えてみればおかしな話なのだが。
やがて「不器用」であると思いこむようになり 他の誰かが「○○は難しい」「○○は苦手」というようなことは 自分にはできないもの と思うようになり 試してみる前に挫折するような状態になった。
そのひとつに「二目ゴム編み止め」がある。
編み物をしている人ならば「ははぁ 確かに面倒なことであるな」と思う技法のひとつだろう。
「苦手」とか「難しい」とか「諦めた」といった言葉を聞く技法だ。
「二目ゴム編み止めができるようになって初めてニッターだ」という人もいて そんな難しいものは不器用な自分には無理だろうな と解釈してしまった。
自分より器用な人や優れた人が苦手だとか難しいだとかいうものを 不器用な自分ができるわけがない と 芯から思ってしまっていたのだ。
どれぐらい難しいのか試してみようと思うこともなく 当然試すこともなく 無理なものは無理だろうというまま今日まできたのだが 何故か急にやってみる気になった。
理由は一目ゴム編み止めができたからだ。
ヴォーグ社の 『くつしたの編み方ハンドブック』の図解がわかりやすかったのが決め手だった。
靴下編みは初めてではないが 今回初めて「本に載っている通りに 指定糸で編んでみる」というのをやってみて その流れで一目ゴム編み止めに挑戦することになったのだが 予想外にスムーズにできてしまったのだ。
これはもしや 二目ゴム編み止めもできるのでは? と思い立ち 早速やってみると できてしまった。
あんなに無理だと思っていたのに 実にあっさりと やれてしまった。
思い込みというのは恐しい。
劣等感にすらならないレベルで 自分は不器用だと芯から思っていたので 「駄目で元々」という気持ちにすらならなかった。
いわゆる「回避行動」と呼ばれる心持ち以前の 純然たる思い込みだけで ここまできてしまったことに驚いている。
二目ゴム編みができたからといって この思い込みが完全に解消されることはないのだろうけれど「駄目で元々」という勢いは肝に銘じておきたい。