38円、カップうどん貧困味(エッセイ習作)
高校3年生の冬のことだ。
塾を終えて22時。お腹はペコペコ、頭はふにゃふにゃ。
そんな時はイオンで夜食を物色したりするんだ。全然金ないんだけどね。
その時もさ、ポケットには53円しかなかった。
板チョコ78円、おにぎり95円、菓子パン98円なんて、惣菜を冷やかしながら店内を練り歩てたんだ。そこで出逢ったんだ。
カップうどん38円。
プライベートブランド、企業努力の賜物。
冗談みたいな価格破壊。凡そ、製品が商品としてギリギリ一線の逸品。
良いじゃないか。企業精神、とっくり見せてもらおう。
腹を決めた。
お湯を入れて5分。
どんぶり大のプラスチック容器には乾麺と粉調味料、砕けた乾燥ワカメが数欠け。素うどん以上トッピング未満。限界を極めた価格にはワカメすら贅沢品か。まぁ、トッピングは所詮は飾り。カップ麺である事自体が価値。
いざ鎌倉ぞ。
うぅ
辛い、塩っぱい。薄い。硬い。
散々たる残状。出汁を感じぬスープ、待てども芯ある麺。感じる塩辛さと見栄えの侘しさ。縮れたワカメが一層の哀愁を誘う。
削るだけ削った価格はうどんを構成する尊厳を様々な角度から踏みにじっていた。
無慈悲で冷たい経済を感じた。湯が目に染みる。
38円。されども38円
選んだのは、僕だ。
手持ちが無かった。仕方なかった。無い袖は振れぬ。
それでもこの一食を選んだのは僕だった。
僕が需要であり、企業は供給した。僕がニワトリで、手元で今冷たくなってゆく混合物が玉子。悲しい悔しい。虚しい、惨めだ。
これが貧困の味。後悔と虚無の味。
あれから増税があった。大学も卒業した。あのうどんも見かけなくなった。
結局、僕らニワトリですら38円を擁護出来なかったんだろう。ポテンシャルの問題か、一層の貧困かは知らないけど。
昨日の昼にカップラーメンを食した。買い置きしていた87円しょうゆ味。海老と卵とネギ、あと謎肉。50円弱の贅沢。スープは好みより薄かった。あの一杯の面影を感じた。
半分食べて思い立つ。新たに卵を割り入れて出汁つゆも投入。ゆっくり攪拌して、レンジでチン。”天津麺”なんてね。
少し肩の荷が降りた。
あのうどんを今でも思い出す。
栄養失調、動脈硬化、日々のモチベーションの低下、etc...。あれで毎日を過ごせば直ぐにでも心身を壊すだろう。
今日のカップラーメンだってそうだ。あの味は警告なんだ。
"一切の希望を捨てよ"
もし幸福な食卓を。健全な未来を望むなら、、。偶にはいいだろう。手軽に手早く、菓子パンスナック、ジャンクフード。僕だってよく知ってる。親しんでる。
うどん以来思うのだ。地獄の淵で踊る一食を。僕の業はうどんの形になって現れた。今日は偶々ラーメンだった。
企業渾身の逸品。経営とリピートの分水嶺で揺れる限界食。資本主義のこの社会。食の尊厳、食卓の尊厳、我らの尊厳。僕らが食しているのは物質としての食物に限らない。
自分で選び、食さねば。
今日、スーパーを歩いた。
カップラーメンとすれ違う。
87円しょうゆ味。
目線を切る。
その隣、味噌味68円。
"魅入られる"
俯き、目を逸らした。
彼らは僕らを待っている。
僕もまたすぐ彼らの手を取るだろう。
懐かして初々しい、
哀れで醜い愛しい我が一食。
あの日の一杯の傍系よ、
共に生きる事はできるのか?
それはまだ分からない。end.
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