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区切りをつけるのは大切な事。家族のことであっても

ぼくのおじいちゃんは禿げていました。

いつから禿げていたかは分からないけど、この人がおじいちゃんと認識できる年頃にはすでに禿げていて横と後ろしか髪がありませんでした。

サザエさんの波平さんより禿げていて、

ちびまる子ちゃんの友蔵さんよりは髪がありました。

父の髪はふさふさしていて禿げそうにありませんでした。

小学校に上がると、隔世遺伝というものがあっておじいちゃんが禿げてると孫が禿げるということをクラスメイトが教えてくれました。
余計なお世話でしたが、その時にぼくは禿げるのが運命的に決まったと思いガッカリしました。

そんな僕も46歳になりましたが、毛根はまだまだ大丈夫です。

頭皮のメンテナンスにちゃぱちゃぱと液体をつけ軽くマッサージはしてますが、化学は隔世遺伝を凌駕することを証明したいと思っています。


って、禿げる禿げないの話ではない!!(笑)

最近昔を振り返ることが多くなったように思います。

特に子供の頃に育った環境が懐かしくなったりして、歳のせいかもしれませんが恋しい気持ちになります。

そこで思い立って、埼玉県志木市にあった父方の祖父母宅へ行ってみることにしました。
ただ祖父母は15年前ほど前に亡くなり家はもう引き払ってありませんので思い出町散策です。

最寄り駅は東武東上線柳瀬川駅。志木駅の一つ先で隣にはみずほ台駅もあり自分と同じ名前に親近感を持ってました。

電車で来たのは実に30年振り


駅前のセブンイレブンは子供の頃にできて、
お年玉を貰うとその足でおでんを買い
寒空で食べるのが至福でした。

駅名にもなっている柳瀬川は目の前に流れ、閑静な住宅街でもあるので穏やかで住みやすい街です。
柳瀬川の土手には桜の木が植えられ、春の名所にもなっています。
土手を眺めているだけで家族や親せきと集まりお花見したあの頃の光景が目に浮かびます。
祖父が土手の桜は自分が植えたといつも自慢していましたが、実際はどうなのか知る由も無い。


この川のカーブも懐かしい。
高い建物がないから見晴らしかいい。
草が生い茂り土手に降りられない!

祖父宅の目の前が柳瀬川だったので、子供の頃家から飛び出しては土手沿いに植えられている桜の木に登ったり鉄棒の代わりにぶら下がったりして遊んでました。
土手遊びも恒例で、夏は段ボールを使い、冬には雪が積もればソリで滑って日が暮れても体力が続く限り遊んでましたね。

土手の景色を見て昔を懐かしむ。

低い桜の木と舗装されてない土手の道。
これも懐かしい景色。
住宅街だと迷子になってしまうのでいつも土手沿いで遊んでいました。
土手沿いならどこまで行こうが迷子にはならない。
祖父宅は無く、綺麗なお家が建っていました。
寂しいけれど懐かしい。
4歳か5歳くらいのとき。
家の前の土手で走って遊んでいたら足を引っ掛けて親たちが焚き火をしている燃え盛る一斗缶に頭からダイブ。
みんな焦ってたなぁ。
キャキャキャキャ笑


これは祖父宅で恐ろしい体験をしたお話です。

祖父の家に泊まると二階の広間で寝るのですが、エル字に雪見障子があり、夜中になると人影が浮かび足音もせず移動して消えることがあり、翌日親などに話しても誰も二階に上がってないと言うから恐ろしかった。この出来事は結構続きます。
その部屋には能面が柱に飾ってあるのですが、これもまた夜更けの事ですが見られている感じがして能面を見ると般若のように怒った顔になっていたり、不気味な笑みになっていたりして、これは子供の妄想だとかいう大人もいたけど親戚の兄弟と目撃したので間違いないホラー現象。
今思い出しても怖くてブルえます。


祖父とは、会うのが最後となった中学三年の頃まで仲良くなることはなかった。
正直な話をしますが、僕の中で祖父母はあまり思い出は無く語れることが少ない。
良い思い出も無く、祖父の事は好きではなかったし祖母とは思い出が残るほど話をしたことも無く、亭主関白の祖父が腰の曲がったお婆さんを顎でこき使う光景が常。
子供心に嫌な気持ちになり、祖父母の家には行きたくなかった。
大正生まれの人には当たり前の男尊女卑の扱いも昭和後期生まれの自分からすると時代錯誤でジェネレーションギャップを感じていましたね。

それでも親戚が集まり楽しかった時期もあったのですべてが悪いモノでもないのですが、未熟な子供からするとショックを受けた影響の方が強く記憶に残りそれが嫌いになる方が勝っていました。

そもそも祖父にとって僕らの家族を快く思っていないことが物心つくころに親から教えてもらいました。

両親の反対を押し切った結婚で、俗にいう駆け落ちというロマンティックなことのようで、僕らが生まれるくらいまで勘当同然で会えていなかったようです。

そんなわけで、他の親戚に比べて当たりが強いというか、いつも距離を感じていました。
それはお年玉に露骨に表れ、3家族集まり子供も多かったのですが、歳が変わらない他の親戚の子供には高額なお金が配られ、僕はいつまでたっても500円札1枚でした。途中からワンコイン。
どうしてか聞いたことがありましたが、お金が無いからと一言。
子供だって自分の事を好きかそうでないかは顔を見て分かるもんで、どうみたって良くは思ってないなあ。

今では考えられないスパルタ教育も嫌いになった要因の一つかな。

小学生低学年の頃、一年の中でこれは許してはダメという行いの数を母親が数え、夏に会う祖父にその数の分だけ全身にお灸を据えられるというもの。
最高で30個あった時は泣き喚き、2個おまけで28個にしてもらいましたが、改心するどころかそんなひどい仕打ちをした祖父を嫌いになりました。

絶対許せないという気持ちがあり、祖父の家へ遊びに行ったときにテレビの裏に隠している祖父の秘密のエロビデオを朝一番に起きてくる祖母が見つけれらるようにテーブルに置いておきました。
ウキウキしながら寝床に着き、朝になると不穏な空気に。
「どうしたの?」と白々しく聞きましたが返事もせず、暫くしたら「お前だろ?」とテレビの裏の方を指さし、「何のこと?知らないよ」と答えるもその時は僕と親戚の3人くらいしか子供がいないからバレてしまいました。子供なりに誤魔化すのが下手なんですね。

その出来事以降祖父は僕を余計嫌いになったようで、口を聞いてくれなくなり、お年玉も貰えず意地悪されるようになりました。

そんな時はまたエロビデオを探し出しテーブルに置きました(笑)

中学三年のお正月に新年の挨拶に行くと、その頃には自分の親同士の離婚も決まり子供たちは全員母方に行くのが決まっていた為か、祖母からは無視され祖父からは何で来たんだ?と言わんばかりに露骨な怪訝な態度で居たため、余りにも腹が立ち「二度ときませんので」と言い捨て家を出てきてから一度として会うことは無かった。

どんな偶然か、同じ年に父親とも縁が切れました。

双子の片割れ瑞樹君はその後も父親や祖父母と交流を持っていたようで、僕の俳優活動をテレビで見ていると感想を話していたそうな。

僕も頑固なもんで会うことはしませんでしたが、その血はこの方から間違いなく引き継いでいるのでお互いに意地を通した格好だ。
血は争えない。

ただこんなにも会ってないのに嫌な思い出もあるにも拘らず懐かしく恋しくもなるのは、やはり家族なのだからなのでしょうね。

何でこんな話をしたのか分かりませんが、今だから話せるような気がして、今だから振り返ってもいい気がして話してみたかった。

家族の在り方なんて家族同士が決めればいい。

嫌いだろうが何だろうが家族であることに変わりはない。


NHKのファミリーヒストリーを見てると祖父母はどんな人生を送って来たのか気になったりします。
もし出演なんてそんな機会があれば、特に祖父はいつから禿げ始めたのか、祖父の祖父も禿げていたのか徹底的に調べてほしいですね。


この景色を見るのは最後だな。
気持ちに区切りがつきました。
気持ちには感謝しかないよ。

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高杉 瑞穂 | 俳優
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