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【ハンムラビ】弱小国だったバビロン第1王朝をメソポタミア統一国家にまでブチあげた非情なる王の決断【古バビロニア王国】
どーも、たかしーのです。
今回は『ハンムラビ』について、です!
自身の名を冠した「ハンムラビ法典」で有名な王ですが、実はこの王が成し遂げたメソポタミア統一までの流れがスゴかったので、今回はそこにフォーカスを当てて、書いていきます!
メソポタミアの歴史(ここまで)
前回までのおさらいですが、今回登場する『ハンムラビ』が出てくる前までの歴史をざっくり年表で振り返ります(ホモ=サピエンスの登場あたりはカットしました)。
約9000~8000年前:西アジアでウバイト人による人類最初の農耕牧畜が始まる
約8000~7000年前:南部メソポタミアで灌漑農業が始まる
約6000~5000年前:南部メソポタミアに移住したシュメール人が村落を形成し、これが都市へと発展する(この頃から青銅器や楔形文字を使い始める)※この頃、日本はまだ縄文時代。
紀元前2700年:シュメール人がウル、ウルク、ラガシュなど20もの都市国家を形成する
紀元前2600年:ギルガメシュがウルク第1王朝第5代の王として在位する
紀元前2300年:サルゴンがウルク第3王朝を破って、アッカド帝国を建国し、はじめてメソポタミアを統一する。
紀元前2193年:東方から進出したグティ人の侵略によって、アッカド帝国が滅亡する
ハンムラビを知るために抑えておきたい用語
アムル人
前回のアッカド人と同じ、セム語系民族。
元々はシリア砂漠で、遊牧をしながら暮らしていましたが、今から約4000年前(紀元前2000年)ごろ、メソポタミアへと侵入するようになりました。
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by LLs (wikipedia)
ハンムラビは、のちにメソポタミアでアムル人が建国したバビロン第1王朝の第6代の王として、登場します。
エラム人
約4200~4100年前(紀元前22世紀)ごろ、西アジアのイラン高原南西部で起こったとされる民族。系統は不明。
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このエラム人が住む地域には、いくつか王国があったようですが、アッカド帝国の王サルゴンが「4人のエラムの王も打倒して征服」したという記録が残っており、たびたびメソポタミア方面から侵攻を受けていました。
アッシリア
メソポタミア北部の地域、または、この地域で起こった王国のこと。
今回の内容では、後者のことを主に指します。
アッシリアの歴史は、今から約4500年前(紀元前3000年半ば)ごろ。この地域に住む民族がアッシュールをはじめ、カルフ、アルベラなど、都市を形成していきました。
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その後、サルゴンが建国したアッカド帝国や、ウル第3王朝(後述)の時代には、この国の支配下となりますが、ウル第3王朝が滅亡したあたりで、独立を果たし、紀元前1975年頃に、プズル・アッシュル1世によって、王国としてのアッシリアが誕生しました。この王国は『古アッシリア王国』とも呼ばれています。
※この後にもアッシリア王国が何度も出てくるため、それと区別するために「古」が頭についています。
この古アッシリア王国ですが、なんやかんやあって、紀元前1813年に外からやってきたアムル人のシャムシ・アダド1世によって征服され、アッシリア、つまりメソポタミア北部を支配するようになります。
ハンムラビが登場した時代背景
ウル・ナンム ウル第3王朝を建国する
アッカド帝国が滅亡した後、何が起こったか。
実は、元々メソポタミアの南部に住んでいたシュメール人たちが、アッカド帝国の衰退に乗じて、ウルという都市を中心としたウル第3王朝を建国していました。
※名前は似ていますが、アッカド帝国の王サルゴンに滅ぼされた王朝は、ウルク第3王朝です。全く異なる王朝ですので、要注意!
このウル第3王朝を建国したのは、ウルの軍事司令官であったウル・ナンムという人物でした。
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by Steve Harris(wikipedia)
ウル・ナンムは、他にもアッカド帝国からの独立を狙っていた各都市との争いに勝利し、約4100年前(紀元前2100年)頃に、シュメールを統一することに成功します!
世界最古の法典 ウル・ナンム法典
ウル・ナンムは、シュメール人の神殿であるジッグラトや、運河の建設を行うなどして、シュメール人の国家として立て直しを図りますが、その中でも特筆すべき事業が、世界最古の法典とされるウル・ナンム法典(シュメール法典ともいう)の編纂でした。
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(wikipedia)
実は、このあとに登場するハンムラビ法典は、この法典の影響を多分に受けていますが、「目には目を、歯には歯を」といった同害復讐法の記述はなく、損害賠償に重きが置かれた法典となっていました。
ちなみに、賠償金については、当時は鋳造貨幣(金属を溶かし型に流してつくった貨幣)はまだなかったため、秤量貨幣(金属を重さで量って貨幣として使用)によって、支払われていました。その金属は銀だったそうです。
この法典を編纂していたことで、ウル第三王朝では、法に基づく行政や裁判が行われていたと考えられており、実際、行政や財政、租税、裁判記録などが記された粘土板が出土されています。
※その頃、日本はまだ縄文時代の真っ只中…。
エラム人の侵攻によりウル第3王朝滅亡
しかしながら、当時としては、斬新な法に基づく内政が行われていたものの、西方からはアムル人が、東方からはエラム人が、といった異民族による侵入や攻撃にさらされ、ついに紀元前2004年、エラム人の侵攻によって、ウル第3王朝は滅ぼされてしまいました。
その後、ウル第3王朝なきメソポタミアでは、シュメール人の残存勢力であるイシン王国と、アムル人が建国したラルサ王国が現れるようになりました。
イシン・ラルサ時代の幕開け
イシン王国は、滅亡寸前であったウル第3王朝から独立した勢力であり、メソポタミア南部の都市イシン(Isin)を拠点していました。
ラルサ王国も、同じくウル第3王朝から独立した勢力であり、同じくメソポタミア南部の都市ラルサ(Larsa)を拠点としていましたが、王は西方からやってきたアムル人であり、イシン王国と対抗するカタチで力をつけていました。
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by Zunkir(wikipedia)
やがて、ウル第3王朝が滅亡したのち、この2国はメソポタミア南部の覇権を巡って、激しく争うようになりました。
このウル第三王朝の滅亡から、ハンムラビがメソポタミアを統一するまでの時代を『イシン・ラルサ時代』と呼びます。
バビロン第1王朝 爆誕!
この争いの結果、ラルサ王国が勝利を収め、メソポタミア南部の覇権を握ることになります。
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一方その頃、メソポタミア中部では、都市バビロン(Babylone)を拠点としたアルム人による王朝が、独立勢力として起こっていました。この王朝を『バビロン第1王朝(古バビロニア王国)』と呼びます。
記録では、初代王であるスムアブムが、紀元前1894年に即位したとあり、どうやらこの頃に成立をしたようです。
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by Lucía Caballero(wikipedia)
そして、スムアブムとその後継者たちは、かつてメソポタミアで王朝を築いてきた王らがやっていたように、他の国や異民族からの侵攻を防ぐべく、城壁を築き、バビロンを首都にして、造り替えていくことになります。
※そういえば、伝説の英雄ギルガメシュも、その治世で城壁をつくってましたよね!
出番ですよ!ハンムラビ
バビロン第1王朝は、周辺にあった他のアムル人の王朝との戦いに勝利をし、メソポタミア中部での勢力も拡大していくことになります。
この勢いで、メソポタミア南部の覇権を握っていたラルサ王国とも争い、1度は勝利して、南部の領地を奪うことに成功しますが、紀元前18世紀に入ったころ、ラルサ王国が巻き返し、敗北。領土は奪い返され、バビロン第1王朝がメソポタミア南部まで拡大することを阻止します。
ちょうどこの頃、イシン王国はラルサ王国に併合するカタチで滅亡。シュメール人の残存勢力であったこの国が滅んだことで、歴史からシュメール人が姿を消していくことになります…(さらば、シュメール人…)
そして、ようやくここで、ラルサ王国に押され、劣勢ムードとなったところに…
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紀元前1792年、バビロン第1王朝の第6代の王として、ハンムラビが即位し、なんとここからメソポタミアを統一することとなります!
ハンムラビがメソポタミアを統一するまで
ハンムラビ「せや、アッシリアと同盟くんだろ!」
ハンムラビが即位した頃のバビロン第1王朝は、当時、北に巨大なアッシリア(古アッシリア王国)、東にエシュヌンナ王国、南にラルサ王国、という3つの国に囲まれていました。
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特に、この頃、アッシリアとラルサは最盛期を迎えており、他の国に対してブイブイいわせていた時期でもありました。
そんな隣国が力をつけてきている状況において、ハンムラビは、自らの立場を冷静に判断し、強大なアッシリアを敵に回さないよう、同盟を組み、シャムシ・アダド1世との友好関係の維持に注力していきます。
同盟を組んだことにより、ハンムラビは、アッシリアの支援を受け、南のラルサを攻めます。この支援が大きかったのか、バビロンは1度奪った都市を次々とまた奪い返し、領土を広げます。
また、東のエシュヌンナにも攻め立て、エシュヌンナからも領土を奪うことに成功します。
ハンムラビ「せや、アッシリアとの同盟破棄したろ!」
だんだんと勢いにのったハンムラビ率いるバビロン第1王朝ですが、ここで追い風が吹きます!
なんと、紀元前1781年に、シャムシ・アダド1世が亡くなります。
カリスマ的な存在であった王がいなくなってしまったことで、瞬く間にアッシリアは弱体化をしてしまいます。
このスキを、ハンムラビは逃すことなく、アッシリアとの同盟を破棄して、後継者であるシャムシ・アダド1世の息子たちを見限ります(ヒドイ…)。
当時、アッシリアの統治下にあった都市マリは、シャムシ・アダド1世の息子であるヤスマフ・アダドが治めていました。
しかし、この都市は、その昔、アッシリアに支配される前は、マリ王国という1つの王国であり、ヤフドゥン・リムという王様がいたのですが、生前のシャムシ・アダド1世に攻められ、その結果、この不利な戦況により起こったクーデターによって、暗殺されてしまいました。
そして、その息子であるジムリ・リムは、このクーデターにより、西の外れにあるヤムハドへと亡命をし、アッシリアを恨めしく思っていました。
そんなマリ王国の次期王子の存在を知っていたハンムラビは、このジムリ・リムに近づきます。
ハンムラビ「なぁ?ワイらと協力して、マリを取り返さへんか?」
というわけで、ジムリ・リムは、バビロンと同盟を結び、自身が亡命していたヤムハドにも支援を受けながら、マリを統治していたシャムシ・アダド1世の息子ヤスマフ・アダドを倒すことに成功します!
これでリベンジを果たしたジムリ・リムは、マリ王国を復活させることとなります………..が…………。
ハンムラビ「せや、マリと同盟くんだろ!」
実は、マリ王国を復興させたのは、ハンムラビの戦略でもありました。
このあと、バビロンは同盟関係であるマリの支援を受けながら、東のエシュヌンナ、南のラルサに対抗していました。
この2国に加えて、他の異民族からも攻撃を受け続けていたバビロンは、長きに渡って防衛戦を行っていたので、同盟国であるマリのジムリ・リムには、
ハンムラビ「すまんが、敵の出方がわかるまで兵を借りといてええか?」
と伝えて、ハンムラビは、マリの兵をずっと借りっぱなしの状態にしていました。これには、ジムリ・リムもご立腹だったようです。
※ちなみに、ジムリ・リムのヤムハド王とのパイプも利用しており、ハンムラビは、ヤムハドから3万人の援軍もちゃっかり送ってもらっています。
そうこうしているうちに、戦況が変わり、紀元前1763年、ついにバビロンが南のラルサを滅ぼすことに成功します!
残る強敵は、エシュヌンナのみ!
かつて、マリもエシュヌンナに何度も攻撃された過去があり、ジムリ・リムは、ハンムラビに
ジムリ・リム「YOU、エシュヌンナを支配しちゃいなYO★」
と、いった内容の書簡(おそらく粘土板)を、このとき送っています。
しかし、もうすでにハンムラビは、あることを決めていました…。
ハンムラビ「せや、マリとの同盟破棄したろ!」
どうやら、粘土板による記録では、この頃のハンムラビは、マリに対する扱いがだんだんと悪くなっていたことが、推察されています。
つまり、長年のライバルであったアッシリアとラルサを倒したことで、メソポタミアの覇権まであと一歩までやってきたハンムラビは、もはやマリとは比べ物にならないほど、バビロンが強国にまでのし上がってしまったので、マリとの同盟を重視しなくなってしまったのです。
その結果、紀元前1761年、ハンムラビはマリとの同盟を破り、エシュヌンナよりも先にマリを滅ぼして、併合することに成功します(ヒ、ヒドすぎる…)。
で、長らく同盟関係であったジムリ・リムは、どうなったのか??
これに関しては記録がなく、消息はわかっていません…。
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by Heretiq(wikipedia)
ハンムラビ「よっしゃ!メソポタミア統一や!」
これでほぼ敵なしとなったハンムラビは、紀元前1757年ごろ、ついにエシュヌンナも滅ぼし、すでにへなへなであったアッシリアへも兵を送り、ついに、紀元前1750年ごろ、メソポタミア統一を果たします!
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by MapMaster(wikipedia)
こうして、首都バビロンを中心とした統一国家としての古バビロニア王国が、メソポタミアの地に誕生することとなりました!
ハンムラビの歴史(おらさい)
いろんな国と王様が出てきたので、最後に年表順でざっくりとまとめてみました。
紀元前1894年:初代王スムアブムが即位し、都市バビロンを中心としたバビロン第1王朝(古バビロニア王国)が成立する
紀元前1792年:バビロン第1王朝の第6代の王として、ハンムラビが即位する
紀元前1781年:強国だったアッシリアの王シャムシ・アダド1世が亡くなる→亡くなったことに乗じて、アッシリアの都市であったマリ王国を復興させ、マリと同盟関係となる
紀元前1763年:バビロンがラルサを滅ぼす
紀元前1761年:ハンムラビが同盟を破り、マリを滅ぼす
紀元前1757年:バビロンがエシュヌンナを滅ぼす
紀元前1750年:アッシリアも制圧し、メソポタミア統一を果たす
おわりに
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(wikipedia)
今回は「ハンムラビ」がメソポタミアを統一するまで、でした。
次回は、統一後に確立した『ハンムラビ法典』を中心に書いていきたいと思います!
今回書く前までの「ハンムラビ」のイメージは、自身の名前を冠した法典を作って内政を整えた人といった感じでしたが、実際はゴリゴリの戦略家だったので、ビックリしました。
マリ王国を復興させたあたりは、ハンムラビ自身がこの人を味方につけるためのメリットをしっかりと認識していて、またシャムシ・アダド1世が亡くなってからの動きが非常に素早いように感じるので、事前に戦略として先の先まで読み解き、もうこのあたりぐらいからメソポタミア統一まで考えていたのではないか?さえ感じてしまいます。
ほんと、先の先まで読んで行動できる人って、カッコイイですよね!
他にも、この歴史上の人物や神話などをベースに、記事を書いていく予定ですので、是非フォローなどしてもらえるとありがたいです!
それでは!