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2022/3/5 moments notixe

通夜を終えて。「葬儀」という時間は、残されたひとのために行われるケアの一部だったか、と実感する。(そんなことは当たり前なのかもしれないけど、僕はいままでまったく考えもしなかった。)

遺体に対する細かな処置から火葬に至るまで、宗教的な儀礼も含めて、あらゆる過程はシステマティックに、遺族の影で粛々と行われるものであっても良い。だけど、決してそうはならなかった。

例えば、遺体の顔に薄く化粧が塗られて、そのあと「ご遺族のみなさまで、手指を布で綺麗にしてあげてください」と言われる。そのプロセスも施設側がやってしまっても良いが、ここでは喪ったひとたちに委ねられる。ぼくたちは声を掛けながら、最後に親しかったひとの身体に触れることができる。
そのときまで、遺体に触れる機会などない。そんな発想がまず、無いのだ。ここではじめて、アルコールの滲みた布を指にあてがいながら、そのひとが「冷たい」こと、「固い」ことを知る。そのひとに体温がない、ということと、ほんとうに向き合っている。

ぼくたちは棺のうちに花を添えることができる。亡くなったひとが生前愛用していたものや、思い出深いもの、そのひとに宛てたなにかを、棺にそっと添える、というかたちで「精算する」ことができる。棺の内装もまた、業者によって遂行されそうなものだが、実際ほとんど遺族の主体性に委ねられる。

あるいは、仏教の読経と説教に触れて、思想的な介入を受ける。万象同帰や悉有仏性のことばに、もちろん現実的には納得せずとも、一時的に「そうかもしれない」「そう信じよう」という心向きをほんとうに得ている。つかの間、別のリアリティに出会って、理性は綻び、その綻びを媒介として少しだけ前に向き直す。

葬儀の準備は計り知れないほどめんどくさいものだが、それでも儀礼を執り行うのは、それが儀礼として「やらなければならない」意識があるのもそうだが、それ以上に、「残された人が生き続ける」ために媒介するパフォーマンス的側面があるからではないか。これは既に、グリーフケアではないか。

哀しみを哀しみとおすこと。かなしいということを分かち、あらわしあうこと。


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