映画『バクラウ 地図から消された村』とマンガ『刻刻』と〈ジャンル混交〉論
例によって去年今年と、いつもだったら映画館で見るはずの作品をNetflixなどなどで見ていまして、今回超おすすめの映画『バクラウ 地図から消された村』も先日Netflixのレコメンドに出てきて視聴という。
諸々のところで見られるので──ぼくは映画館が超すきなので映画館で見たいんですけど──ぜひ見ましょう。
そして本記事は映画未見でも読めるように書いています。なおネタバレはあんまりないタイプの作品です。
映画『バクラウ』概要
舞台はおそらく現代の、おそらくブラジルの、おそらく小さな村、です。
こういう言い方そのものが本記事の本質、超重要ポイントでして、いつどこで誰が何をなぜどのように的な5W1H的発想がこの『バクラウ』にはほとんどありません。
もう少し正確に言うと、当然5W1Hは観客のほうにはあって、推測することは可能です。ただ作り手のほうにはそれを説明する気はまったくないのです。邦題は日本の配給会社が付けるので副題「地図から消された村」はオリジナルにはないものです(オリジナルタイトルはBacurau)。
冒頭、宇宙空間から捉えた地球から始まります(これも超素晴らしい前フリ!)。その映し方──たぶんCG──も説明不足で、見る人が見ればブラジルのどこどことわかるのかもですが、わかりやすい全体像はなく、そもそも地球かどうかも判然とはしません。
そこから転じて、主人公らしい女性が──その人は最後のスタッフロールで最上位に来ます──どうも故郷らしい村に車でやってくるところから物語は始まります。葬式の準備が始まっていて、とはいえ早速トラブルも起こり、これがどうも〈閉鎖的な村を舞台にした映画〉であることがわかってきます。
ジャンルとしての〈村もの〉
ささっとググった限り、どうも〈村舞台の映画〉に対する確定的なネーミングがないみたいですが、作品的にはたくさんあります。ホラーは傑作が多いですし、ぼくがすきな監督のひとり、ラース・フォン・トリアーは『ドッグヴィル』とその続編『マンダレイ』でも〈村もの〉を描いています。
ミステリにおける〈クローズドサークル〉のように、舞台が限定されるだけで──みなさんそうだと思いますけど──テンションはあがるので、〈村もの〉が作られるのは必然と言っていいでしょう。
もうひとり、ぼくがすきな監督、M・ナイト・シャマランの作品に『ヴィレッジ』という佳作があります(シャマラン記事は近日中に)。タイトル通り、ある村を舞台にはしているのですが、とはいえ物語はシャマランらしい、なかなかジャンルが言いにくい作品です。あえていうとサスペンスでしょうか。それをいうとシャマラン映画はたいてい広義のサスペンスですけど。
『バクラウ』のジャンル
そして『バクラウ』です。こちらはシャマランとはまた別のジャンルへの態度を取っていて、まずは〈村もの〉と思わせます。タイトルのBacurauが実は村の名前だったこともわかるので、そのジャンル予想あるいはテーマ予想にも、確信が出てきます。序盤から立ち込める不穏な雰囲気は、村ものによくある〈ホラー〉感を強めます。
しかし事態は不可解に〈サスペンス〉的に進み──あるいは邦題通り村の名前がネット地図から消されるという──事件が起きて〈ミステリ〉になるかと思いきや、UFOが出てきて〈SF〉なのかと驚かせもしてくれます。
wikiの『バクラウ』の項には〈西部劇映画〉とも書かれている始末で、もはやジャンルはするすると変化し続けていきます。
つまり『バクラウ』は次々にジャンルを切り替えては混ぜていく〈ジャンル混交〉映画なのです。
もうひとつの〈ジャンル混交〉──『刻刻』
〈ジャンル混交〉に成功している実例として、真っ先に挙げたい作品が堀尾省太の傑作マンガ『刻刻』です。
こちらも『バクラウ』同様──詳細はわからないまま──ともかくも舞台となる時間も場所も、非常に限定されています。
舞台が限定されているにもかかわらず、事態はまさに「刻々」と変化して、初めは〈クライムサスペンス〉と思わせつつ、いきなり〈時間SF〉になり、続いて〈バトルもの〉になり、最終的には〈宇宙論SF〉から〈人情もの〉に至ります。
作者、堀尾省太はこの〈ジャンル混交/ジャンル切り替え〉が天才的にあざやかで、最新作の『ゴールデンゴールド』では孤島を舞台に、新しいジャンル混交を見せてくれています。
メタ操作のひとつとしての〈ジャンル混交〉
〈ジャンル混交〉が優れているのは、端的に言って/結論を言ってしまうと、作品あるいは物語が新しく生まれ変わるからです。
これまでホラーだと思っていた物語世界があざやかにSFに生まれ変わる瞬間を、〈ジャンル混交〉作品では──そのジャンル切り替わりのタイミングごとに──感じることができます。
ジャンルを切り替えるということは、ある意味でメタレベルで作品を操作することです。このメタ操作には色々なバリエーションがあるようです。
たとえば作者が登場するというのもメタ操作です(シャマラン監督はしばしば自分の映画にカメオ出演します)が、こちらは受け手もいっしょにメタレベルに移動します。それはそれで楽しいですが、物語性/虚構性はいささか消失するように思います。ああ、これは映画だったと改めて思い出すからです。
一方〈ジャンル混交〉の場合、受け手はあくまでも作品世界にいるので、メタ操作を受けながらもメタ性に覚醒することはありません(実際のところは、受け手は常に虚構内と虚構外に同時にいるので、そのときの立ち位置、というよりも立ち方が少し違う、ということのような。このあたりはまた深堀りできそうな)。
参考として〈全体小説〉
ここで、〈ジャンル混交〉に近いものとして、あるいは〈全体小説〉を挙げることはそれほど的外れではないように思います。
〈全体小説〉とはサルトルが提唱した、人間を個人から社会までのひとつの全体として把握して小説として表現しようとする手法のこと。
〈ジャンル混交〉は別に人間を描こうとするものではないし、『バクラウ』に至っては主人公が誰なのかも不明瞭になっていきますが、存外、狙っている方向性は〈全体小説〉と似ているように思ったのです。どちらも作品全体の統一感にかかわっているからでしょう。まとめると以下のようになりそうです。
全体小説:個人から社会まで多様に書くことで、人間全体を多面的に描き出す。
ジャンル混交:ジャンルを切り替えることで、物語世界全体を多面的に描き出す。
参考としてのゲームのジャンルの不確定性
そういえば先日とある企画の打ち合わせで教えていただいたこととして、最近のゲームはジャンルが不確定性/一言では言えない、という話があります。
確かに、パズルゲームや格闘ゲームなど、すでに確立されたゲームジャンルがあって、こちらも新作は出ている一方で、最近のゲームについてはジャンルがそもそも書いていない/設定されていないことが多いのです。ぼくが超やっているスプラトゥーンも、1のほうですが、wikiでは〈アクションシューティング〉〈TPS〉〈対戦アクションゲーム〉の3つが書いてあるのです。
スプラトゥーン1は2015年の作品。もうとっくに、〈ジャンル〉そのものについて考え直す時期に来ているのです。
今回のオチ──〈ジャンル混交〉の過去と未来
〈ジャンル〉は作品の作り手にとっても受け手にとっても強力な概念装置です。
「この作品のジャンルは何なのか」つまり「この作品は何がしたいのか」ということは、作り手にとっては創作の指針になりますし、受け手にとっては読解の基準になります。
しかしそんな指針も基準も要らないのでは、ということが今回のオチです。
ホラーだからといって楽しんでいいわけですし、というか現代ホラーは怖がるというよりはほとんどギャグとして笑うジャンルになっていて、もはやジャンル自体のほうから溶け始めています。
〈ジャンル混交〉は、このお約束がなくなっていく現状から生まれてきた手法と言ってよいでしょう。
もし〈ジャンル〉というものが消失すれば、もはや〈ジャンル混交〉もありえません。元ネタがわからないからです。
物語芸術の源泉のひとつは──あくまでも一例ですけれど──「面白い話を誰かに聞かせたい」というところにあるはずです(ちなみにこの方向にとって最悪の感想は、「どこが面白いの?」と「何が言いたいの?」です)。
このようなところが物語の源泉である以上、ジャンルは残り続けます。それはほとんどクローズドサークルと同じ──バクラウやゴールデンゴールドが舞台を限定するのと同じ──〈物語の限定化〉であり、〈限定による情報濃縮〉という手法だからです。
そしてなぜ今回〈ジャンル混交〉をこんなに推しているかと言えば、それはぼくがデビュー作『ランドスケープと夏の定理』からずっと〈ジャンル混交〉をしているからに他なりません。
2021/08/08現在の最新作『青い砂漠のエチカ』でも同様で、それなりに上手くなってきたのではないかと思っていたり。
映画批評をしていると思いきや、文学史的な話になって、最終的に自作解題になっているという、ジャンル混交エッセイになったということで今回はおしまいです!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?