
ローマのバス・ヴァイオリン IV 〜コレッリ
はじめに
今回もStefano La Viaの論文「コレッリの時代におけるローマのヴィオローネとチェロ 用語法、楽器学的モデル、演奏技法」の続きです。表などはそこからの引用です。
Stefano la Via, « VIOLONE» E « VIOLONCELLO» A ROMA AL TEMPO DI CORELLI; TERMINOLOGIA, MODELLI ORGANOLOGICI, TECNICHE ESECUTIVE, 1994
作品から見て
アレッサンドロ・ストラデッラの器楽と声楽の作品を基本的な参考資料としたのは、特にローマにおけるチェロのソロ使用の最初の例が、まさにこの作品に関連しているためである。そして、チェリスト兼作曲家としてローマで活躍したコレッリやその弟子たちの作品、また、同じ環境で活動していたが、楽器のヴィルトゥオーゾとしては知られていなかった音楽家たち、例えばアレッサンドロ・スカルラッティやヘンデルの作品も検討された。

Tessituraというのは使用されている音域です。
(注)私が確認したところ、この表の音域についての記述はいくつか間違いがあります。たとえばStradellaのsinfonieは最高音がsi1、そしてコロンバーニの最高音はsol1です。
手稿譜、出版譜からは、序文や楽器の指示など文字情報から作曲者自身が用いた用語を直接、または間接的に知ることができます。作品の低音パートや独奏チェロの旋律テクスチャなどは楽器モデルや調弦を特定するための手がかりにもなります。
では、表Cをちょっと見てみましょう。
ストラデッラの作品から
『サン・ジョヴァンニ・バッティスタ』(1675年にサン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニで上演されたオラトリオ)にあるチェロのオブリガートを伴うアリアと、とりわけストラデッラのヴァイオリン、チェロとバッソのための2つのシンフォニアは、おそらくコレッリがローマに到着する以前から、ローマではすでに、扱いやすさと音質と量感を両立させることのできる、CGdaの4弦を備えたチェロの進化したモデルが知られていたことを示している。 このことは、高度なヴィルトゥオジティが要求されること、旋律音域(C-c2)(訳注 おそらくC-b1の間違い)が広いこと、高度な専門用語との関連で第4弦(おそらくガット巻きの銀弦)が少なからず使われていることから推測できる。 カシミリが突き止めた楽器奏者のリストによれば、おそらくドン・ガスパロ・コンタレッリ(訳註 ローマのヴィオローネ奏者、1694年には「チェロ奏者」との記録もある)がサン・ジョヴァンニのコンチェルティーノの「プリモ・ヴィオロンツェッロ(Violonzello)」のパートを演奏したのだろう。


ストラデッラのサン・ジョヴァンニ・バッティスタのチェロ・パートはご覧の通り最低音Cからdまでで、音域としては1675年当時一般的なものです。昨年(2023年)エクス・ノーヴォ合唱団とこのオラトリオを演奏したのは記憶に新しいですが、譜例にあるような活動的なバスラインが印象的で、1675年当時すでに「扱い易」く小回りのきくバス・ヴァイオリンがあったことを想像させます。
対して、シンフォニアのほうはそれとは少し様子が違っています。b1までの高音域はコレッリまで含めても異例で、果たしてサン・ジョヴァンニ・バッティスタと同じ楽器を想定しているのだろうか?という疑念も。ヴァイオリンと対等な跳躍のある早い動きも特徴的です。私見ですが、このシンフォニアに関してはCGdad’(or e’)の5弦も選択肢に含めて良いのではないか。モデナ・エステンセ図書館に所蔵されているシンフォニアの手稿譜には、“violoncello”と表書に楽器名があるのですが、年代的にそれは極めて怪しい。La Viaも以下のように述べています。
しかし、私が調べた楽譜に方言が使われていたことは、エミリアの写譜家の手によるものであることを裏付けている。したがって、シンフォニアの写本にある「ヴィオロンチェロ」という表示は、後日、別の手によって付け加えられたようである。
このシンフォニア集の「ヴィオロンチェロ」表記は、写譜から時間をおいて書かれたようです。この実に技巧的で華やかな(チェロ?)パートは、17世紀終わりローマの一般的なヴィオローネには少々荷が重いように感じます。
そして実際、ストラデッラの場合は、世紀末の四半世紀以降もずっと孤立したケースであり続け、どちらかと言えば、17世紀後半にエミリアで盛んになったチェリストの作品に即座に追随したように思われる。
確かに孤立した例です。シンフォニアの成立年代も分かりませんが、そもそもストラデッラは1682年に亡くなっているので、偽作でない限りはそれ以前であることは間違いない。
このシンフォニアに関しては、エミリア(モデナ・ボローニャ)の作品と比べても音域と複雑さという点に置いて先鋭的だと思われます。これらのことから判断して、私にはどうしても小型の5弦(例えば現代のチェロよりは少し小さいヴィオロンチーノ)が適しているように思われてなりません。
一方、コレッリは
コレッリ自身は、ボローニャ出身であるにもかかわらず、生きている間、伝統的な呼び方であるヴィオローネ(1679年の手紙には、ピッコロと解釈できるp.がついている)を使い続け、彼の音楽でこの楽器の第4弦(訳註 最低弦)を使うことはほとんどなかった。トリオ・ソナタOp.2でさえ、低音弦Cに触れることはない。これに加え、旋律音域の狭さがあり、コンチェルト・グロッソ作品6まで、Laを超える音域はなく、しかもこの音域に達することは非常に稀である。一般的に、この楽器のヴィルトゥオーゾ的あるいは歌唱的な可能性は、テノール記号が頻繁に使われるテッシトゥーラの中高音域で発揮され、 低音域はほとんど終盤のカデンツァにのみ使われる。

このような音域上の特徴は、コレッリだけでなく、ルリエール、ハイム、アマデーイ、ジョヴァンニ・ボノンチーニ、コロンバーニ、ペローニ、ガエターノ・ボーニといった、彼の弟子やローマの同僚であるチェリスト・作曲家にも当てはまる。
とLa Viaは言うものの、コレッリ作品5のバス・パートには最低弦C線の開放弦を含む重要な動きがあり、4弦で最低弦C線も明確な響きをもった楽器がイメージされているような印象があります。

Allegroでこの中段のようなオクターブを含む活発な動きがあるということは、C線までの音域を含めて、操作性の高い楽器ではないだろうか?
ローマで活躍した作曲家によってヴィオロンチェロという言葉が使われ始めたのは1695年(F. ガスパリーニのカンタータ集 作品1)からである(この年代的な一致にも注目)が、ヴィオロンチェロがヴィオローネに優先して使われるようになったのは18世紀に入ってからである。 オラトリオ「聖コスタンツァ」(1700)の自筆譜では、ハイムは両方の用語を使用しているが、圧倒的に古い方を好んでいる。
1690年代という年代についてはローマの会計公文書のデータとも一致しています。
ハイムの例は、同一資料の中でヴィオローネとヴィオロンチェロの両方を使用している例ということですが、使い分けでなく同じ楽器を指しているということでしょう。
このオラトリオの資料が確認できないので、今後調査したいと思っています。
ボンベッリの「ヴィオローネのためのソナタ」
さらに驚くべきは、1722年から1735年までオットボーニのリストにチェロの名前で載っていたジョヴァンニ・ボンベッリが、ヴィオローネのためのソナタを書いていることである、しかも、非常に高度なチェロ書法が特徴的で、旋律的な範囲はd’まで広がっており、「ヴィオロンチェロのジョヴァンニーノ」として有名なジョヴァンニ・バッティスタ・コスタンツィの独奏チェロのためのヴィルトゥオーゾ的なソナタや交響曲に匹敵する。


テノール音域の重用とd’までの音域、弦を一本またぐ10度の跳躍の連続。まさにこのような特徴はコスタンツィのソナタと全く同一なのです。
上の譜例Amorosoは1段目最後からオクターブ上で記譜されています。次の譜例、上のパートはテノール記号です。このような特徴から考えて、この作品がローマで使われていた大型のヴィオローネを想定しているとは私にはとても思えません。
コスタンツィのチェロ・ソナタ
コスタンツィの作品と見比べてみましょう。(私の書き込みが少しあります)



このコスタンツィのソナタは1730年代と言われています。
ボンベッリのソナタの年代は、La Viaによれば1720年代〜30年代ということなので、コスタンツィと近い時期のものと考えてよいでしょう。ボンベッリの“ヴィオローネ”とコスタンツィの“ヴィオロンチェロ”の書法には強い共通性があります。CGdad’(またはe’)のような五弦の楽器の可能性も考えられるでしょう。
コスタンツィの同時期の作品については明らかにカポタスト(親指を運指に用いる)奏法を用いた4弦の楽器を想定したものもあります。
私はこのボンベッリの「ヴィオローネ」とコスタンツィの「ヴィオロンチェロ」はほぼ同じ様式の楽器と判断してよいと考えています。
というわけでここまでの様々な調査から見えてくるもの。
調査から浮かび上がった最も興味深い事実、最も強調すべき事実は、まさに情報のほとんど目もくらむような多様性と矛盾した性質である。
調べれば調べるほど矛盾が出てくるという。
ヴィオローネという用語が、単一の、非常に正確な楽器学的モデルにまったく対応していないことを教えてくれるのは、文献そのものである。ローマでは17世紀の初めから翌世紀の前半までほぼ継続的に使われたこの用語の意味は、それが関連づけられる機会や音楽のジャンルによって、また、その楽器が使われる場所 ー 教会、講堂、大学、修道院、宮廷や宮殿 ーによって、また、その楽器が写譜者、筆記者、作曲家、楽器職人、あるいは単なる編纂者によって使われるかどうかによって異なる。
もはや“ヴィオローネ”という名前と単一の楽器モデルを結びつけるのはやめましょう。
もし楽器のサイズや特徴を特定する必要があった場合、たとえば16フィートであることを明示したい場合には、contrabasso, grande, doppioなどの形容詞が続くことは当時もよくありました。
1700年の『聖コンスタンツ』でハイムが行った区別は、それほど明確ではない。独奏ヴィオローネに頻繁に委ねられたソロ部分は、アリア「Mai sì giocondo」における2つのオブリガート・チェロのものと同様、間違いなくチェリスト的なテクスチャと楽器のイディオムを示している。ハイムが一度だけ使用した「ボローニャ」モデルとは質も音量も異なる、「ローマ」の小さなヴィオローネ・ピッコロをおそらく指しているのだろう。コレッリや、後のボンベッリもこの小さなヴィオローネを想定していたと思われる。 この楽器は特に長い指板を備えており、おそらくC G D A Dの5本の弦が張られている。
CGdad’という調弦の根拠は明記されていませんが、ボンベッリに関しては五弦であるならばCGdae’のほうが弾き易いのではないか、というのは私の意見です。調弦に関しては、その都度作品に合わせた柔軟な対応をしていたのではないか、という見解もあります。
チマパーネのヴィオローネ
ボローニャ・タイプの楽器ではない、ローマで好まれたヴィオローネがあったのだということです。それはもしかしたらカットダウンされる前のテクラーのオリジナルサイズのような楽器だったかもしれない。イタリアのチェリスト、アレッサンドロ・パルメリは、コレッリのオーケストラ記録にコントラバス奏者としても現れる“チマパーネ”Simone Cimapane作のラベルを持つ楽器を所有していますが、そのサイズは現代のチェロとは異なるものです。このような楽器であった可能性ももちろんあるでしょう。
以下、私の撮影による資料です。


単独ではサイズ感が分かりかねますが、全長・幅ともに一回り現代のチェロよりは大きいものです。当時はピンを使わず、床に直接置いて弾いた可能性もあります。
このチマパーネを使った録音もあるのでぜひお聴きください。私も加わっています。
もちろんこのモデルで決まり、これしかないというような楽器も証拠もありません。
楽譜を調べただけでは、このような楽器学的な違いを立証することは不可能である。また、図像学的な資料、特に作品Vと作品VIのコレッリの裏表紙の比較から、この点に関して明らかになったことを盲信することもできない。
もし私が考えるように、ローマの現実が他のイタリアの中心地の現実を何らかの形で反映している、あるいは少なくとも様々な起源を持つ異質なものの影響を受けているのだとすれば、ボンタの魅力的な理論が示唆するように、ヴィオローネからヴィオロンチェロへと直接的かつ即座につながる一直線の進化の過程を一般的に語ることは、もはや容易ではないように思われる。
ボンタ仮説のようなシンプルでストレートな移行は、少なくてもローマには当てはまらないだろうと。
要するに、新しいボローニャ・モデルが、ローマの実践に最終的に定着するまでに、甚大かつ永続的な抵抗に遭遇したことを見逃してはならない。ストラデッラの時代にはすでに採用の試みが行われ、ローマ人とエミリア人の両方が、この楽器の名手として常にこの街に存在していたにもかかわらず、である。
コレルリや彼と同時代のチェリスト兼作曲家たちの作品を調べてみると、低音弦の使用は非常にまれで、テシトゥーラの中高音域を明らかに好み、テノール記号を頻繁に使用している。 この選択は、ローマの楽器製作技法のアップデート不足との関連で語られるべきものではなく、どちらかといえば、テノール音域における楽器のより大きな "カンタービレ "と明快な響き、そして指板の上の方の高い音域におけるヴィルトゥオーゾ的な実験へとますます高まる必要性が結びついた、より正確な様式的・美的要求に合致するものであると私は考えている。
(略)コレルリ自身が、まだ実験的で洗練されつつある段階にあったチェロの新しいモデルとともに、古いモデル、特に扱いやすいが低音域での音量が弱い小型のヴィオローネ(大型で、教会で使用されていたヴィオローネとは異なる)をローマに残すことに貢献したのではないかという仮説を立てることができる。コレッリがこの楽器に親しんでいたことは彼のボローニャ時代の経験からも確かで、また1690年頃からダヴィデ・テクラーがローマで活躍していたことを考えれば、彼がそのような楽器を知っていたことはなおさら確かなことである。
コレッリのコンチェルト・グロッソ作品6のコンチェルティーノ・パートは、
ますます頻繁かつ精巧になっているが、これはヴィルトゥオーゾ的、音色的、そしてより一般的な楽器の言語に関するな研究の努力を示すものであり、18世紀的なチェロの楽器イディオムの確立に向かっていることを示している。
結論として、聖チェチーリア修道会の無名の秘書が18世紀末に書いたと思われるメモの文章を引用するのが適切だと思う。このメモには、作曲以前に、実践的・実行的な直接的実験のレベルで、楽器に対するコレッリの徹底的な関心が示唆されているように思われる。 チェリストの "流派 "の基礎を作ったのはコレッリであるとまで言われている。これもまた、今後のさらなる研究に値するテーマである。
“チェロ奏者であったニコラ・ハイムは、アルカンジェロ・コレッリの教えを受け、その芸術を完成させた。コレッリは当時、ローマでヴァイオリン、ヴィオラ、ヴィオレッタ、ヴィオローネまたはチェロのための有名なスクールを開いており、彼自身もこれらの楽器に親しんでいたのである[...]”
この最後の引用は、極めてインパクトはあるものの書かれたのが18世紀末とかなり時間が経っていることで、それがどの程度17世紀末〜18世紀初頭の現実を反映しているかどうかはわかりません。しかし、今後の研究によって明らかになってくることもあるかもしれません。
このあと論文には図像学的な面から見た奏法の話などあるのですが、楽器自体の話ではなくなるので、そこは今回省略。
ここまでがLa Viaの論文です。次回は2013年のマルク・ファンスヘーウヴェイクによる「コレッリ時代ローマにおける弓奏低音楽器 Bowed basses in Corelli’s Roma」という論文に移っていきます。