留学日記#03: 多様性って何だろう?
さて、アムステルダムに到着してか2度目の週末を迎えています。この2週間は本当にいろいろなことがありました。寮に日本人の友達を見つけたり(しかもその人と小学校が同じだったり)、乗る地下鉄を間違えて全然違う方向にまっしぐらしたり、真夜中に酔って誰かが鳴らした火災報知器に起こされて、そのまま激しいパーティーに担ぎ出されたり。毎日何かしらのハプニングが起きていて、まあ愉快にやっています。
今週は珍しく天気が良い日が続いています。この時期のアムスは雨か曇り続きなのでこんなことは滅多にないと、外のテラスに移動して勉強していました。目の前に運河があって、随分と癒されます。もっとも、風が強すぎて1時間程度で退散してしまいましたが。
そうやっておよそ2週間を過ごしてみて、改めて認識したことがあります。びっくりするくらい当たり前すぎて、拍子抜けするかもしれませんが、それは次のことです。
自分は「外国人」であるということ
僕って、ここでは「外国人」なんですね。そもそも「外国人」って「外国」ってなんなんでしょう?僕は国籍が日本にあるので「日本人」ですが、それはオランダにいても変わらず「日本人」です。でも、ここでは「外国人」なんです。不思議だと思いませんか?
僕はいつ、どの瞬間から「外国人」になるんでしょうか?僕が今「日本人」でもあり「外国人」でもあるということは、じゃあ「外国人」じゃないときは、僕は何者なんでしょうか?そもそも僕はいつから「日本人」になったんでしょうか?国籍ってどういう意味を持つんでしょうか?
考えれば考えるほど訳がわからなくなるのでやめておきますが、ともかく「外国人」なんです。ビザがなければ不法滞在です。滞在許可証は来月取りに行くことになっていますが、もしこれから何か手違いが起こって滞在許可がキャンセルになったら、僕は不法滞在者になります。
いくら「地球は一つ」とはいっても、この世界はいくつもの壁によって、境界線によって、分断されています。普段は「日本人」というアイデンティティを持っているつもりでも、ある場所では「アジア人」と見られることもあるし、「外国人」、つまり「ここの人じゃない人」とみられることもある。こうなると自分のアイデンティティがごちゃ混ぜになってきます。
なんでこんな話をするのかというと、「外国人」であることはすなわち「マイノリティ」である、ということに気づいたからです。
僕は今、オランダではforeignerあるいはnewcomerです(strangerと言われると、あまりいい気分はしませんね)。だから、アムステルダムの道や電車のことはよくわかりませんし、文化もよくわかりません。言語はある程度は分かりますが、ネイティブではありません。いわば「弱い」立場にあると言ってもいい。そういうマイノリティ、「弱い」立場に立ってみないと、見えてこないものがあるなあと思うからです。
私は中学の頃から主導的な立場ないし指導者になることが多かったのですが、中学3年で初めてキャプテンを任されてから、可能な限り弱い立場にある人たち、ことにマイノリティを守るようなリーダーシップを発揮したいと思ってきました。その前提にあるのは、マジョリティは多かれ少なかれ、無意識のうちにマイノリティに対する暴力たりうるという考え方です(これを言うと多くの人に嫌な顔をされるので、あまり大きな声では言わないようにしていますが)。
そのマイノリティへの暴力をいかに削減するか。マイノリティへの暴力を軽減しようとすると、その矛先は別の人に向かっていく。結局は、誰かにとっての利益は誰かにとっての不利益になるんですね。それを、どのあたりで調整するか。どうすれば、誰もが100%納得することはできなくても、60%くらいは納得してくれるような方法を見つけることができるか。それを目指してきましたし、今考えればそのよりよい妥協点を見つけることこそが、まさに私が今勉強している「政治」の役割なのだろうと思います。
「弱い」立場にある人たちに向き合おうとすれば、「弱い」立場の人の気持ちを考えることが必要です。ただこれが難しい。「お前に何がわかる」という言葉が言う通り、「弱い」立場にある人の気持ちは「弱い」立場になってみなければわからないからです。
詩人で作家の若松英輔さんは、『弱さのちから』という書物の中で、次のように述べています。
世界には「弱い者」になってみなくては、けっして見えてこない場所があります。そこで人は、朽ちることのない希望を見出し、人間を超えた何ものかと出会うのです。
この言葉の意味を、今になってかみしめています。この本は、コロナ禍にあって、私たちの「強さ」ではなく「弱さ」を、「愛する」ことよりも「愛を受け止める」ことを、問い直すために書かれた本です。難しい本ではないので、お時間のある方はぜひ手に取ってみてほしいと思います。
私は新しい環境に慣れるのに人よりも時間がかかります。今まさにnewcomerである私は、その意味で確実に「弱い」立場にあると言えるでしょう。
その話との関連で気になるのは、じゃあそのマイノリティといかに共生するか?ということです。
マイノリティをいかに包摂するか?
マイノリティをいかに包摂するか?あるいは、マイノリティがマジョリティといかに共生するか?を考えるときに、今思い出すのが、今年度受講していたセミナーの先生が、中国やロシア、イスラム系の人々や文化について、「やはり彼らは”違う”んだ」と幾度となく指摘していたことです。一見、寛容性に欠ける考え方にも思えますし、実際同級生の一人がその発言に対して疑問を抱いていました。僕も同じように考えていたのでよく覚えています。
ただ、実際に自分が慣れた場所を離れて、異質な環境に身を置いてみると、そしてことにマイノリティになってみると、「彼らは”違う”」ということ、いやそれよりむしろ、「自分が”違う”」ということに、いやというほど気づかされます。実際、同じ寮に日本人がいた時には安心しましたし、アジア人だというだけで(あれだけ尖閣諸島がどうとか慰安婦問題がどうとか授業で議論しているのに!)安心感というか親近感がわいてしまう自分がいたのです。無意識のうちに、同質な「私たち(we)」と異質な「彼ら彼女ら(they)」の間に線を引いていた、ということに気づかされました。
確かに、多様性は重要ですし、ことに今の時代にあっては大切にすべき価値です。でも、どんなに自分と異質なものを認めようとしたところで、限度はあります。そもそも、「多様性を認めよう」という運動が出ること自体、私たちがいかに違った存在で、分かり合うことが難しいか、ということを反映している証拠なのかもしれません。それにもかかわらず、「私は彼らと分かり合えるはずだ」という確信あるいは期待が強くなりすぎると、「分かり合えない」となったときに、「私たち」と分かり合えない「彼ら」の間に、太くて頑丈な境界線をそこに引いてしまうことになりかねません。
「違い」を出発点にすること
そこで重要となってくるのは、少々逆説的ですが「私とあなた(彼ら)は違うんだ」という認識だと思います。それは「違うからどうせ分かり合えない」という絶望感であるとか、「あいつらの考え方は俺らよりも劣っている」とか、そういう価値判断を含むものではなくて、単に現実の認識としての問題です。「違うんだ」という認識に立って物事を見てみると、案外それと同じくらい「同じ」「似ている」こともあることに気が付きます。「違う」という認識を抜きにした期待、「同じであるはずだ」「分かり合えるはずだ」という期待は、それがあまりに大きくなりすぎると、わかりあえるはずの場所にすら亀裂を入れてしまうことになりかねません(要は、あまり相手に期待をしすぎると失望から亀裂が入りやすいということです)。
「違う」ということを出発点にして、「同じ」「似ている」を探していく。あるいは、「違い」を前提にして、その違いを乗り越えようとする。完全に分かり合うことはできなくても、「同じ」「似ている」を見つけることができたなら。それがかなわなくても、「違う」ということがお互いに分かったなら。そこを出発点にして、どうやってうまく付き合っていくか、ということを考える糸口が見いだせるように思います。それは何も、留学生が集まる場所に限った話ではなくて、例えば日本の特定の学校の特定の組織のなかであったとしても、同じことが言えるんじゃないのか。そう私には思えます。
こう言い換えてもいいかもしれません。「多様性を認める」ということ――それは、同質な「私たち(we)」と異質な「彼ら彼女ら(they)」の間に、無意識の境界線が、見えない境界線があるということを認識したうえで、その境界線を越えて分かり合おうとする試みである、と。
ゼミのお友達なら、この考え方を「現実主義」だとか「冷徹」だとか、そう形容する人もいるかもしれません。ある意味でそれは正しい。心配されそうですが、大丈夫です。まだ絶望してはいません。「徹底した現実主義者は理想主義者たりうる」との言葉通り、僕は理想主義者です。少なくとも自分ではそう思っています。
自分と違うものを多く持つ人を受け入れるのは、いつだって疲れます。だから、疲れたときは自分の殻に閉じこもったり、慣れ親しんだコミュニティに帰ることも時には必要なのだろうと思います。直接会うことはできませんが、家族やゼミ、サークルの友達をはじめ、ちょっとしたことで気にかけてくれて、話を聴いてくれる人たちがたくさんいます。そうした人たちへの思いを新たにしつつ、今日も頑張ろうと気を引き締める毎日です。