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ラーメンアーカイブ人形町大勝軒③

~ 「珈琲大勝軒」という本流 ~

人形町大勝軒、とは人形町にあった本店の大勝軒である。当時唯一の「大勝軒」であり、場所や系譜を示す必要は当然なかったわけだ。正式には「中華料理 大勝軒」。先に書いたように店のカテゴリーは広東料理と日式のラーメン店の中間のような立ち位置かもしれない。ただ、そこに日本のラーメンが看板メニューとして存在していた、というわけだ。ただ、ここではその部分を明らかにして確定していく作業が目的ではなく、時代背景を感じることを第一義としたい。

その人形町にあった大勝軒はすでに店を閉めている。そして、創業一族の渡辺さんの4代目、5代目が業態を喫茶店に変え、人形町で長らく営業を続けていた。

ビルは「大勝軒ビル」、喫茶店の名は珈琲大勝軒といった。ただ、その珈琲大勝軒も2020年2月29日閉店し、お二人は静かな隠居生活を送っている。まだその喫茶店が近所の憩いの場であり、大勝軒を愛する僕のような偏執的なファンの心の拠り所だった頃を思い出してみようと思う。

ラーメン好きでもこのビルを知る者は少ない

~ 珈琲大勝軒の思い出 ~

人形町大勝軒が姿を変えた珈琲大勝軒には現在4代目の渡辺千恵子さんがいる。いつもレジ脇に座り、朗らかな笑顔で迎えてくれ、わずかな時間の憩いを求めてくる客を迎えてくれるお店の看板娘だが、昭和61年(1986年)12月31日に人形町大勝軒を改築開店させた方でもある。ご主人の武文さんは昭和44年4月27日44歳の若さで亡くなっている。そんな中で大勝軒を仕切り直し、再興させようとした覚悟は相当なものだっただろうと思う。

かつて次々と独立したお店たちが、時代の流れか後継者の不足かによって店を閉めていく中、このお二人は大勝軒の看板を守り続けていた。その二人が語る人形町大勝軒とは、閉店してしまった過去の歴史ではなく、目の前でゆらゆら湯気を立ち上らせるコーヒーのような、まだ温かく生きている現役の話のようであった。

珈琲大勝軒外観

女性に年齢のことを触れるのは大変失礼だが、90歳代とは思えぬシャッキっとした出で立ちとハッキリとした滑舌、そして聡明さを裏付ける記憶の確かさに毎回驚いたものだ。大勝軒の歴史に瑞々しく触れることができたのは、千恵子さんという当事者によって語られた事実によるところが大きい。創業の年でいうと2年違いだが、そこが浅草來々軒との決定的な違いである。

また、記憶が不確かになるから、と時折思い出しては、過去のことをメモしており、当時撮った写真などとも交え、思い出の箱に大切にしまっている。庶民の文化は正確に残らない、というのが歴史学の定説になっているが、為政者や他社が残す歴史よりもご本人がきちんと管理されていることに、おおげさだが感嘆した。

半分ほどしか生きていない僕にも対等に接してくれ、ファンの戯れ言にも真剣に付き合ってくれる。その息子祐太郎さんも店に立ち、静かに珈琲を入れている。朴訥とした人柄だが、時折お母さんの話に割って、重要なエピソードを挿入するのだが、話の内容に嫌味なところや先入観がまったくなく、聞いているほうも素直にわくわくとさせられるような話が多かった。

~ 思い出の箱にあった歴史 ~

仕事の合間に珈琲を飲みに寄りテレワークを行い、お客さんが少なくなったタイミングで大勝軒の話を聞く、を繰り返していると、こちらの熱心さにほだされたのか、あるとき先の思い出の箱を住まいまで戻り、取りにいってくれたときがあった。

それらを丁寧に説明しつつ語られた大勝軒の歴史。これまでファンとして持っていた僕の知識に、当事者の息が吹きかけられると、被っていたホコリが取り払われ、本当の姿を表したかのようのであった。最も古い大勝軒が最も明瞭な記憶によって蘇る…

人形町大勝軒、もとい、支那御料理大勝軒を開いたのは、この珈琲大勝軒の代より遡ること5代前、初代の渡辺半之助。安政五年生まれ(1858年生まれ)油問屋を営んでいた商売人だった。彼がすなわち『大勝軒の始祖』ということになる。

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