【地雷源】~ 20周年ラーメン ~(2002年編④)
~ 時代のアイドル ~
誰しも自分の時代のアイドルが、永遠のアイドルになる。好きな音楽、映画なども同様だ。最新かどうかや、歴代のものと比較してどうかなどの客観的な基準は、すべて「いい時代だった」と言いたいだけの多くある理由のひとつで、言い訳に過ぎない。ただ、熱狂的なファンだった、という一言で済むのだ。もし、議論を交わすなら、その上で、健全に世代を超えた「好き」の議論をすればいい。
ラーメン自体が時代の色を帯びるように、食べ手もまた時代を背負って、それを考え方の軸にしながら生きる。誰もが自分にとってのラーメンのアイドルを心の裡に持ちながら、日々刻々と変わるトレンドと対面するのだ。
地雷源は2002年に開業し、すでに閉店したお店だが、意志を継ぐものがいることや、現在のシーンにもなお影響力を持っていること、なにより個人的に大好きだったで、20周年ラーメンの枠でまとめることを年始から考えていた。いわば僕の熱狂したアイドルのひとつである。
~ ラーメンの転機 ~
今思えば、90年代以前のラーメンは、おおざっぱなカテゴリーの中で自由を謳歌していたと言える。札幌ラーメン、博多ラーメンなどそれなりに多様的であったが、味のディテールよりも、地域や誰もがひと目見てわかるような特徴によって分類が為されていた。それぞれの店にそれを差別化するメソッドはあったが、一部を除いては理屈によって解明されていたわけでもなかった。
それが90年代、味のスクラップ・アンド・ビルドが始まり、それまで王道とされてきた素材や調理法が見直されることになる。鶏や豚の動物系スープと魚介スープは一本の寸胴で調和されながら炊かれていたが、それぞれの個性を最大限に活かすにはどうしたらいいか、という疑問に、一度それらを分割し、もっと特徴を出したところで今一度合わせてみよう、と考えられたのもこの時期だ。特に香りが肝となる魚介スープは、温度や時間など状態によって左右されるもので、その扱いを繊細に行うようになったのもこの時代だ。
それが正しいかどうかではない。それは、アイドルに客観性を持ち込むのと同様だ。ただ、この時代の、ラーメンを再度きちんと組み立て直してみようという新世代の旗手たちによる試みが、時代を超えたアイドルの質を底上げしたことは間違いのない事実である。現代に選択肢とノウハウを授けたといってもいいかもしれない。
~ 地雷源の登場 ~
その中で、地雷源が果たした、普遍のオールドスクールな中華そばを繊細に再構築する、という価値は、非常に現代的なアプローチだったように思う。新時代の新しいラーメンを生み出そうというのではなく、あくまで自分の理想として頭に描かれている中華そばを、単純に美味しくするためにはどうしたらいいのか、という発想があったように思う。
これは、毎年、新しいトレンドが生み出されていた2002年のラーメン界にあっては、少々玄人好みだったかもしれないが、逆にラーメンをトレンドで済ませたくないファンには熱狂的に支持された。地雷源周辺の出身店にもそれは連綿と受け継がれ、変わらぬスタンスでラーメンに向き合っているのも特徴的だ。スタンダードの再構築が、長い時間をかけ、新しい価値を創造したのである。
~ 地雷源 年表 ~
簡単に歴史をおさらいしよう。
正式な店名は
「我流旨味ソバ 地雷源」
店主は鯉谷剛至氏
~ 地雷源の本質 ~
改めて振り返ると、ブランドの多彩さに驚く。地雷源というと、いわゆる我流旨味ソバという繊細な中華そばのイメージがすぐに蘇ってくるのだが、実際は鯉谷さんの「頭の中にある様々なラーメン」の地雷源的解釈で成り立っていることに気付く。最近ではあまり多くの店が手を付けない味噌ラーメンも積極的に展開する他、フランキー中華ソバはノスタルジックなラーメンのスタイル、FRIDAYでは背脂も積極的に用いた。後に中野でさいころのブランドを展開することになるが、これもスタンダードな煮干しそばの味わいだった。
鯉谷さんが厨房に立ち、ひとりでラーメンを仕上げるという意味では、実質El Doradoが最後の(継続的な)お店といっていいかもしれない。そのEl Doradoでは、敬愛する佐野実さんのラーメンのオマージュであるとハッキリ名言している。常に、自分の頭の中にある好きなラーメンを自分流に描いて世間に問う。これが地雷源スタイルだったような気がする。
~ 澄んだ心のアイドル ~
また、お店の造作や調度品など、トータルのコンセプトも黒を基調としたオールドアメリカンスタイルで統一していたが、これも鯉谷さんの頭の中にある理想の空間を描いている。つまり、地雷源とは少年のような心で描かれた理想郷のイラストで有り続けているのだ。
少年の夢を大人の技術で実現する。誰もがやってみたいことを20年間やり続けている地雷源には、従って、コンセプトのブレは存在しない。
そこで冒頭の話である。
地雷源は僕の時代のアイドルであった。だが、そのアイドルが年を重ねてアイドルを卒業したときに、その魅力の源泉が、ルックスや歌や残した作品だけではなく、本人の生き方そのものだったとしたら、過去の良い思い出から、一生伴走していくアイドルになる。地雷源という店はすでにない。しかし、いろいろな形でそのマインドは生き続けている。その欠片を集めながら、伴走していける喜びをいつまでも感じていたい。
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そういった意味で地雷源の遺伝子というものは、形よりもマインドであると言え、弟子や関係のあるお店たちすべてを紹介したいところだが、キリがないので、あえて、みんなが容易に想像する地雷源の味を体現しているお店を紹介し、あの時代のアイドルとして魅力について触れてもらうことにしよう。
~ Tombo(井の頭公園) ~
まず、もっとも正統な(?)後継店Tombo。思い入れのある人が多い地雷源だけに、地雷源との(思い出の)比較で語られがちだったが、2017年のオープンからから5年。地雷源の修行は8年だから、すでに13年このラーメンに向き合ってきた自負が端々から滲み出、Tomboの個性とファンを同時に獲得した。
メニュー名、雪平鍋にスープを移し、個別に温めて丼に注ぐ手法、そして、優雅な香りが立ち込める味。2002年という時代と大きな看板を背負いながら、カッティングエッジな味であるというスタイルを築き上げている。
~The Noodles & Saloon Kiriya(初石) ~
「味を描く」という表現がある。無謀に筆を振るうのではなく、目指す着地の味を明確に見据えながら、自分を表現する。思ってみれば、絵を描くのと同様の行為である。だが、そのすべてがキレイな絵を描くことを目指しているわけでもなく、技法や材料は手段であって目的ではない。ただ、その絵が本当に描きたい絵なのかどうか自問自答したときに明確に自信をもって答えられるかどうか、にその絵の真実味は懸かっている。
情報と知識のみを頼りにしてしまうとたまに見失うものがある。それはマインドや愛情みたいな無形なものであろう。ただ、無形ゆえロマンチックにとらえすぎたりすると、事実とかけ離れていくのも事実。コピーと尊敬は似て非なるものであり、ロマンからしか導き出せない答えもあったりする。
なんのことかといえばこのkiriyaの話である。kiriyaのオープンはtomboより一足早い2016年12月である。20周年を迎えて、なお広くというより深く影響力を持つ地雷源。このkiriyaは修行経験はないそうだが、見て食べて、その(地雷源への)愛情の深さと独自のスタイルとの理想的な折衷の様(さま)に感嘆する。最近リニューアルしたスープはより厚みが出て、かつ華麗に香りが舞う“あの”フォルムを堅持する。もはや、地雷源というよりEl Dorado(福生 閉店)の世界観に近いのかもしれない。
kiriyaが描く味には、その真実味があって、それは描きたい世界観がずっとブレていないように思えた。だから、ただキレイな絵ではなく心を打つ。しかし、その源泉には、永福町大勝軒と支那そばやがあるという。だが、杉並中華そばという側面と佐野実の世界観というのは、地雷源の源にもあるものだ。そういう意味では同じ地平線にこの二人はいたような気もする。
潮ソバのほうがメニューの先にくる同店だが、この醤油ソバも感服の仕上がりである。かつて20年前に思い出が微風に乗って鼻をくすぐる。この20年の間にもラーメンはますます進化を果たした。だが、技術の進歩やテクノロジーがイコール最上の絵画になりえないのと同様に、いかに描くのかがもっとも重要であるとこのお店は知らせてくれる。
~ RAJUKU in the house(あきる野市) ~
RAJUKUとは、鯉谷さんが主催するラーメン学校である。それが今、鯉谷さんのラーメンの発信場所ともなっている。
月に3回。鯉谷さんの今を知るには、ここということになるだろう。開催日に関してはTwitterを参考にするのが良い。そして、月に3回のうち1回は、かつての地雷源を彷彿とさせるラーメンを支那ソバとして提供している。鶏、豚、和出汁のトリプルで仕込み、 営業直前に合わせる。あえて地鶏などを使わず国産ブロイラーでラーメンの原点を見つめる。地元あきる野、近藤醸造のキッコーゴ醤油をタレに使うなど、終の棲家として、地産地消の境地に至ったのかもしれない。
鯉谷マインドが表現される場が月3回ほどでも提供されることへの静かな興奮は、この時代のアイドルとする世代にはとりわけあるだろう。材料や技法などのプロフィールに頼らず、叡智を集めて作るハートを揺さぶる一杯を味わって欲しい。
~ THE FINEST NOODLES EL DORADO(福生 閉店) ~
現在進行系のお店を紹介してきたが、ファンとしてはこのお店について語っておきたいところだろう。当時の走り書きのような自分の感想が残っているのでここに残しておく。
地雷源のいきついた理想郷は確かにここにあったといっていい。トラディショナルであると感じたのは、そこに支那そばやの面影があったからである。理屈を追求すればするほど、伝統に向かう。まさに現代に通ずる価値観であった。
~ 20周年記念ラーメン ~
2022年6月26日『DIGGIN’ the ROOTS』と題された20周年イベントが要町中華そばしながわで行われた。しながわ、バッソドリルマンの品川隆一郎氏は当然地雷源の薫陶を受けた人間だ。
当日は弟子を含めたファン(?)な店主も集まり、ファンも朝早くから列を為し、また行けない人も連絡を取り合い、皆で地雷源愛を語らった。環七の裏七と呼び、表舞台で脚光を浴びるよりも自分の世界を貫き通した地雷源の姿は、裏腹にラーメンの世界ではメインストリームであったことが20年を経て証明された瞬間だった。現在はRAJUKUを通して味の発信を行っていくだろうが、2002年の時代背景を背負い、鯉谷さんのアイドルだったラーメンを再構築した地雷源は、今度は自身がアイドルとなって2022年の時代に輝いている。