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ラーメンアーカイブ来集軒⑦

〜 その他の来集軒 〜

来集軒は一時20店舗以上に膨らんだグループだったと言われている。ただ、多くのこうしたラーメン店グループのように総本店があり、そこから弟子が巣立っていったらどうかというのは不明だ。

加須で店を出した卯都木さんは例外として、残りのお店たちは、戦後独立を果たしていく。そもそも宴会場まで完備するような大型の店舗は焼け野原から復興する最中にあっては作るのは難しく、家族経営の個人店が中心になったという時代背景は当然あるだろう。

前述したように浅草合羽橋総本店は無くなり、浅草店は小ぢんまりとした店舗となった。多くの料理人を一度に雇うような店舗ではなくなった。総本店時代に属し、戦後今後の行き方を模索してく過程の中で来集軒他店や、もしかしたらまったく別の他の店で働いた後に完全に独立していった、ということではないだろうか。

現在確認できている来集軒


浅草店
加須 元町店
加須 久下店

御徒町(竹町)店(※閉店)
南千住店
八広店(※閉店)
堀切菖蒲園店(もともとは日本堤にあった)
新橋店(※閉店)
竜泉寺(台東区 ※閉店)
桂町(台東区 元蔵前付近 ※閉店)
千住(※閉店)
東大島
小村井(※閉店)
浦和店(※閉店)
本八幡店(※閉店)
新馬場店(※関係性不明)
幸手店
鴻巣店(※閉店)    
大塚店(※閉店)
尾久店(※閉店)

出典:八広来集軒店内鏡など


これで20店舗ほどになるが、まだあった可能性は否定できない。社史など歴史をまとめたものが存在する系譜は多いが、来集軒はなく、それを知る術は現在あまりない。

ここで今でも(または最近まであった)来集軒の写真をみていくことにしよう。

鴻巣店(閉店)
鴻巣店も自家製麺
町の振興もあり川幅麺を提供していた
浦和店(※閉店)
浦和店のラーメン
本八幡店(※閉店)
本八幡店のラーメン
チキンライスは出身の八広店での人気メニュー

~ 八広 来集軒というキーマン ~

これまで語られてきた中心的なお店たちほどではないが、キーになるお店がいくつかある。その一つがすでに2018年に閉店となっている八広の来集軒である。八広は1951年に開業している。つまり、浅草総本店の1年後で、相当早い時期に店舗を構えていたことになる。

八広店外観

まだ八広店が営業しているときに少しだけ聞くことができた。三代目店主のお姉さんである“みっちゃん”という女性からで、この店は三代目店主が産まれた年(1951年)に浅草から八広に引っ越してきて開業した、とのことだった。

洋食の要素もあった
オーソドックスな麺だった


当時の浅草を知る人はほぼおらず、仮に知っていても語らず、そして、そのまま閉店してしまったお店が多いことを考えるとみッちゃんから聞いたエピソードの数々は今となっては貴重なものだったと思う。

いろは通りの出口(入口)に店はあった


玉ノ井いろは通りの出入り口ともいえる場所にあったお店(特に店内)は、なんとなくかつてこのエリアにあった怪しいカフェー様式を思わせるが、ほぼ常連で埋めて尽くされており、さながら地域のサロンの役割を果たていたように見えた。

八広店内の雰囲気

また、店内メニュー下にあった大鏡はいつ飾られたものは不明だが、数多くの店舗が連名されており、グループの結束力の高さを思わせた。そして、その一番左端には「浅草合羽橋本店」と書かれていた。

大鏡
浅草合羽橋本店の文字

〜 堀切 来集軒の衝撃 〜

その八広から一人の男が独立して1963年(昭和38年)日本堤(現在の三ノ輪駅東方及び南千住駅南方)に来集軒の屋号で営業を行う。河野袈太郎という人物である。彼の出自は後ほど詳しく語るが、彼はその後、少し高級志向の「光華楼」や「大来軒」という来集軒とは別の屋号で店を出し、グループから離れ、30ほども店を展開することになる。

だが、結局上手くいかず、もう一度来集軒の屋号で堀切菖蒲園駅の近くに店を出すことになった。現在80代半ば。語る口調は今も軽快でハッキリとしている。いろいろなネットでの記事をみるとよほど話し好きなのか、いろいろな人にお店のエピソードを語っているが、それが来集軒の本流かどうかとは別に、当時の時代背景を立体化させるための様々なネタの宝庫であり、また、来集軒とは別の大きなグループとの繋がりで出てくる衝撃の展開となった。

つづく

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