~ 開国後の食文化とラーメン ~
前回の年表(江戸開国からのトピック)にラーメンに関するトピック(年表中太字)を重ね合わせてみる。さらにそこに戦前開業した主なお店(ラーメン店に限らず、中華料理も含めた)を挿し込んでみると、少しは当時の風景がみえてくるだろうか。
~ 戦前のラーメンと戦後のラーメン ~
前回書いたように、ラーメンは突如生まれた画期的な発明ではなく、他の素材や料理を含めた食の開国と、それらを日本なりにアレンジした過程で生まれた自然の産物のひとつである。
ただ、ラーメンの作りだけに限らず、店の形態も含め、戦前と戦後ではの世界観が大きく違っていくことになる。
戦前の中華(支那)料理の流れを汲むお店は、戦後も一部それなりの格式を持って続いていくが、他の多くは閉店した。戦後は、再出発、もしくは新しいお店が数多く誕生し、現在多くの人にイメージされる(個人店の)ラーメン店や街中華店が登場してくるわけだが、これは本格的な中華料理の系譜を紡いだというよりは、戦前、日式にアレンジした料理を廉価に提供するお店である。例えばラーメンとカレー、オムライスなどを一緒に提供するお店たちだ。
戦前、日本蕎麦屋で大衆化したお店は、こうした日式の非和洋メニューを提供していたかもしれないが、少なくとも戦前、中華屋ではあまりなかっただろう。
この戦前と戦後の大きな違い・転換は、単純に日本が圧倒的に貧しくなり、食材もなかなか手に入らず、最低限のリスタートを切ることになったことが最も大きな要因だが、それとともに、店舗経営の構造自体も大きく変わっていったことが考えられる。
來々軒や本項の主役人形町大勝軒は、日本人オーナーがいて、雇い入れた(中国人の)料理人が料理を作っていた。個人店もあったが、それらの多くは南京町出身の料理人による店が多かった。
それが戦後になると一変していく。日本人には営業許可すら与えられない期間があり、それを経て、闇市で手に入りやすかった中華料理の食材をもとに日本人自らが料理人として中華料理をメインにした店を多く開いていく。彼らは中華料理の本流にいたわけでは必ずしもなく、日式の日本人に馴染んだ味をメニューに組み込み、それらは街中華となり、そして、ラーメン専門店はより日本人に向けた味に先鋭化していくことになる。
一方で、大型の中華店では、中国資本による中華料理店が非常に増えている。特に田村町(現西新橋)には多くの中国資本の中華料理店が誕生した。1955年に中国飯店・赤坂飯店、1958年に四川飯店・樓外樓飯店、1961年に留園が開業している。
理由として、単純に日本が弱体化したことで流入されたこともあるだろうが、以下のような理由もあっただろう。
~ 人形町大勝軒の登場 ~
さて、この歴史の中で、『支那御料理大勝軒』が登場するのは1912年。大正元年である。1910年代前半といえば日清日露戦争を終え、いよいよ、帝国主義の色合いを強めていく頃だった。世界的にも植民地を含めた欧州各国の領土が4/5を占める中、一触触発の状態であり、そのつかの間の静寂を楽しむように庶民文化が育まれていったに違いない。
当時ハレの日の外食だった中華料理(広東料理)を大衆的で身近なスタイルで提供した来々軒はまたたく間に評判となり、人気店となった。その後、他がこぞって同じようなお店を出そうとするのは、自然な流れだと言える。
その中のひとりに、油問屋の渡辺半之助がいた。半之助は商売人でもあり、浅草界隈を飲み歩く、粋な遊び人だったという。来々軒の成功という刺激、商売人の勘、なにより来々軒の一杯が美味しかったのかもしれない。そして、花街浅草、柳橋を飲み歩くうちに広がった人脈が大勝軒を形作っていく。