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ラーメンアーカイブ人形町大勝軒⑤

~ 開国後の食文化とラーメン ~

前回の年表(江戸開国からのトピック)にラーメンに関するトピック(年表中太字)を重ね合わせてみる。さらにそこに戦前開業した主なお店(ラーメン店に限らず、中華料理も含めた)を挿し込んでみると、少しは当時の風景がみえてくるだろうか。

1857年 アメリカからリンゴの苗木が贈られ、
     津軽に伝わる
1859年 開港により多くの外国人が移り住み、
     海外の食文化が流入する事となる。
     これをきっかけにラーメンのルーツ
     である中国の麺料理も日本に
     伝わる事となる。

1860年 日本人初のパン屋が横浜で開業する
1862年 横浜で西洋野菜が栽培される
   (レタス、キャベツ、カリフラワー、
    パセリ、セロリ、ニンジン、
    ラディッシュ、トマト、サヤエンドウ、
    イチゴ、アスパラガス等)
1867年 江戸初の西洋料理店「三河屋」開店
1869年 横浜で「アイスクリン」発売
1870年
日本初の中国料理店が横浜の居留地に登場。
1872年 アメリカ人指導の下、
     長崎市にハム工場建設
     木村屋のあんぱん誕生
1873年 東京や北海道で牛乳生産、
     バター製造開始
1878年 風月堂の米津松造、
     東京両国で貯古齢糖(チョコレート)製造
1884年 函館「養和軒」にて
    「南京そば」というメニューがあった。
    函館新聞に広告が載せられた物で、
    日本で最初に、正式に中華麺が
    宣伝された可能性がある。
    ただし、この「南京そば」が、
    現在のラーメンにつながる汁そばで
    あるかどうかは不詳である。

    聘珍樓(南京街)開業
1885年 ヤマサ醤油、ウスターソース製造
1888年 麒麟ビール発売
1890年 ヱビスビール発売
1892年 萬珍樓(南京街)開業
1899年 居留地廃止に伴い、
    中国の麺料理を含め
    中国料理が広がっていく。
    長崎『四海楼』の陳平順氏が
    長崎ちゃんぽんを考案

    維新號(神保町→銀座)開業
1906年 中国からの留学生が増え、
    神田、牛込、本郷あたりに
    大衆中国料理店が増える。

    揚子江菜館(神保町)開業
1908年 鈴木商店(現・味の素)、
    「味の素」製造開始
    華香亭(横浜山手)開業
1910年 尾崎貫一氏が「淺草 來々軒」をオープン
    その後、日本初の一大ラーメンブームを
    起こす事となる。

1911年 漢陽楼(神保町)開業
1912年 家庭向けの中国料理本がベストセラーに
    大勝軒(人形町)開業
1914年 大勝軒(茅場町)開業 
1915年 玉泉亭(横浜)開業
1916年 奇珍楼(横浜)開業
    のんきや(奥多摩)開業
1917年 和光堂、育児用粉乳の発売開始
    生駒軒の前身児玉製麺所創業
1919年 巴家料理店(神田)開業※
1923年 札幌「竹家食堂」営業開始。
    札幌ラーメンの元祖だが、
    現在のような濃厚な
    味噌ラーメンではなく、
    比較的あっさり目の
    醤油ラーメンがメインだった。
    現在は、その味を受け継ぐ竹家が
    神戸市にて営業中。


    初めて日本人が経営するカン水業者が
    横浜と東京・深川に開業

    関東大震災により、
    東京・横浜を中心としたラーメン店が
    全国へ散らばる。
    被災したことにより屋台が増加し、
    ラーメン専門店が増える。

    生駒軒(麻布)開業
1924年 萬来軒(幡ヶ谷)開業※
    復興軒(スカイツリー)開業
1925年 食品工業(現・キューピー)、マヨネーズの製造開始
    中華楼(蔵前)開業
    品香亭(三田)開業※
    源来軒(喜多方)開業
1926年 ラジオ料理番組の放送開始
    銀座アスター(銀座)開業)
1927年 中村屋、純印度式カリー発売開始
1927年 寿屋(現・サントリー)、国産ウィスキー販売
1928年 三河屋(堀切菖蒲園)開業
1929年 萬福(銀座)開業
1931年 たいめいけん(日本橋)開業
    春木家本店(荻窪)開業
    大勝軒(三越前)開業
    利しり(新宿)開業
1932年 三渓楼(横浜山手)開業
    來々軒(祐天寺)開業
1933年 貧乏軒(錦糸町)開業 ※のちのホープ軒
1935年 マルタマ(秋田十文字)開業
1937年 九州最初のラーメン店「南京千両」が開業
     営業開始以来、現在まで屋台での営業である
天天有(鹿児島)開業
1938年 新福菜館(京都)開業
1940年 丸高中華そば(和歌山)開業

出典(太字のみ):ラーメン博物館HP
※は閉店

~ 戦前のラーメンと戦後のラーメン ~

前回書いたように、ラーメンは突如生まれた画期的な発明ではなく、他の素材や料理を含めた食の開国と、それらを日本なりにアレンジした過程で生まれた自然の産物のひとつである。

ただ、ラーメンの作りだけに限らず、店の形態も含め、戦前と戦後ではの世界観が大きく違っていくことになる。

戦前の中華(支那)料理の流れを汲むお店は、戦後も一部それなりの格式を持って続いていくが、他の多くは閉店した。戦後は、再出発、もしくは新しいお店が数多く誕生し、現在多くの人にイメージされる(個人店の)ラーメン店や街中華店が登場してくるわけだが、これは本格的な中華料理の系譜を紡いだというよりは、戦前、日式にアレンジした料理を廉価に提供するお店である。例えばラーメンとカレー、オムライスなどを一緒に提供するお店たちだ。

中華料理店のカレーライス(一寸亭)
町中華のオムライスのイメージ(三光園)


戦前、日本蕎麦屋で大衆化したお店は、こうした日式の非和洋メニューを提供していたかもしれないが、少なくとも戦前、中華屋ではあまりなかっただろう。
この戦前と戦後の大きな違い・転換は、単純に日本が圧倒的に貧しくなり、食材もなかなか手に入らず、最低限のリスタートを切ることになったことが最も大きな要因だが、それとともに、店舗経営の構造自体も大きく変わっていったことが考えられる。

來々軒や本項の主役人形町大勝軒は、日本人オーナーがいて、雇い入れた(中国人の)料理人が料理を作っていた。個人店もあったが、それらの多くは南京町出身の料理人による店が多かった。

中華の本流を行く料理もまた日本に定着している
(筆者実食分)

それが戦後になると一変していく。日本人には営業許可すら与えられない期間があり、それを経て、闇市で手に入りやすかった中華料理の食材をもとに日本人自らが料理人として中華料理をメインにした店を多く開いていく。彼らは中華料理の本流にいたわけでは必ずしもなく、日式の日本人に馴染んだ味をメニューに組み込み、それらは街中華となり、そして、ラーメン専門店はより日本人に向けた味に先鋭化していくことになる。

街中華イメージ(中華料理飛鳥)

一方で、大型の中華店では、中国資本による中華料理店が非常に増えている。特に田村町(現西新橋)には多くの中国資本の中華料理店が誕生した。1955年に中国飯店・赤坂飯店、1958年に四川飯店・樓外樓飯店、1961年に留園が開業している。

理由として、単純に日本が弱体化したことで流入されたこともあるだろうが、以下のような理由もあっただろう。

これは中国本土、香港、台湾などから、それらの土地柄の不安を反映して、一種の資本逃避というような形で、東京に移ってきた中国資本が、そういうふうにしてその温存を計ろうとしているからだ。

出典:キッコーマン国際食文化研修センターHP

~ 人形町大勝軒の登場 ~

さて、この歴史の中で、『支那御料理大勝軒』が登場するのは1912年。大正元年である。1910年代前半といえば日清日露戦争を終え、いよいよ、帝国主義の色合いを強めていく頃だった。世界的にも植民地を含めた欧州各国の領土が4/5を占める中、一触触発の状態であり、そのつかの間の静寂を楽しむように庶民文化が育まれていったに違いない。

当時ハレの日の外食だった中華料理(広東料理)を大衆的で身近なスタイルで提供した来々軒はまたたく間に評判となり、人気店となった。その後、他がこぞって同じようなお店を出そうとするのは、自然な流れだと言える。

その中のひとりに、油問屋の渡辺半之助がいた。半之助は商売人でもあり、浅草界隈を飲み歩く、粋な遊び人だったという。来々軒の成功という刺激、商売人の勘、なにより来々軒の一杯が美味しかったのかもしれない。そして、花街浅草、柳橋を飲み歩くうちに広がった人脈が大勝軒を形作っていく。

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