ラーメンアーカイブ来集軒④
~ 加須来集軒というルーツ ~
もともと製麺所で働いていたという卯都木一族は、麺を卸していた中華料理店で話を聞きながら、独学でラーメンをはじめとした料理の知識を得ていき、一号店を出した。この経緯に関するエピソードはニュアンスが受け取り方によって難しいが、製麺所がアンテナショップとして店舗を出したというよりは、中心地を少し離れた場所といい卯都木が独自にやろうと考えていた、と考えるほうが自然である。
つまり製麺所は「麺部」として現在まで継承しているが、料理店としての歴史を築いたのは、実は卯都木豊松をはじめたとした卯都木一族ということになる。
加須に移った豊松は元町店で手揉み麺のラーメンを自家製麺で出した。自家製麺は現在も続いている。来集軒製麺所という供給源を持ちながら、(当時配送するにはあまりに遠かった事情はあるにせよ)自家製麺であるというところに、製麺所出身で独立したという出自を色濃く見出すことができる。それが現在の浅草店のラーメンに近い、いや、浅草店がこちらの一杯に近い、逆輸入の関係になっているのが真相とするべきだろう。来集軒製麺所で特別に手揉みしてもらっているという浅草店の麺は、この自家製麺のがモチーフになっているだろうと推測できるからだ。
~ もうひとつの名物シュウマイ ~
浅草店で聞いた
「うちは餃子はないけど焼売はあるのよ」
というのは加須も同じ。加須の元町、久下店、鴻巣店と焼売をすべて食べ比べてみたが、つなぎが多めのグニュッとしたもので浅草店に近いのはやはりこの元町店の「しゅうまい」だった。自家製の皮と玉ねぎと豚肉のみで作る来集軒の名物のひとつだが、これも卯都木豊松さんがレシピを作ったそうだ。つまり、入谷の来集軒一号店~浅草合羽橋総本店に至る過程で今日の来集軒のベースは出来上がっていたということになる。
~ 卯都木豊松という人物 ~
その卯都木豊松に関するエピソードをいくつか紹介しよう。
180cmの大きな体躯で、とにかく聞くエピソードすべてが豪快。いつもテレビで浅草店が取り上げられる度に、なんでえなんでえ、と文句を言っていたそうだ。自分が作り上げたという自負があり、同時に職人の矜持でもあり、ある意味真実だったんだろう。
加須に移ったとき、料理に使うお酒などを手に入れるために浅草橋まで女将さんをお遣いに出したという。当時加須から浅草橋の闇市まで行くこと(おそよ70km)は相当な労苦だったと思うが、その浅草で遊べると喜んで出て行ったらしい。時代を感じさせるエピソードだ。
元町店は2代目(現在の店主のお父さん)のときに客が入らず、空のオカモチを持って近所を駆けまわったという。繁盛店だと評判を呼ぶための演出。ステルスマーケティング、古くはサクラ、新しくはwebマーケティングを行う現代には考えられない“営業努力”だが、現在まで地元に愛されているお店を眺めているとその努力は見事に実を結んだと言える。と同時に豪快だった豊松さんに微笑ましい感情さえ沸いてくる。
ルーツは未だに健在。そして本流は加須にあり。味の連続性ももちろん大切だが、史実は静かにこの結論に導いてくれる。時代という背景に背負いながら、いまだに力強く営業している加須店に、卯都木豊松という人物の生命力を重ね合わせて、それがその後20店舗も展開するグループになる幹となっていたことを確信したのだった。
ただ、本流はもうひとつあった。
つづく