餅中華の世界
~ 甘味屋のラーメン ~
ラーメンの歴史は戦前と戦後で大きく変わってくる。甘味屋のラーメンも同様で、日式のラーメン自体が1910年頃に誕生した後、昭和に入ると甘味屋でラーメンを出すところが出てくる(後に紹介する大釜本店等)。当時は「甘辛ホール」などと端的な愛称で呼ばれていたようだ。
戦後の甘味屋のラーメンは、まず物資が圧倒的に欠乏していたところがスタートである。闇市というマーケットはあるにせよ、自由に商売をすることすらできない事情があった。敗戦直後は食材は厳格に統制されており、願うものが手に入るわけでもない。1946年5月に砂糖の代用品として、サッカリンやズルチンの使用許可が認められるようになり、(日本人が)お店を始めるとなると甘味類(しるこやぜんざい)の販売をするのが現実的だった。
もりそば(つけ麺)で有名な大勝軒のルーツになった丸長(荻窪)も1947年(昭和22年)にお店を開けるが、ごく初期は甘味屋だったと言われている。その年の6月、一般家庭へ配給されていた小麦粉の委託加工制度が許可されるようになった。当時、主食になる米飯、小麦粉などは特に厳しく食糧管理法により統制されており、欠配も多かった。更に、たとえ貴重な小麦粉を手に入れても、それを捏ねて焼くことはできても、パンや麺をつくるのはかなかな難しかった。また、飲食店の営業も原則禁止。その中で始まったのが委託加工制度で、それにより製麺業者が潤うようになった。丸長はそういう流れで蕎麦屋での経験を踏まえ、中華麺を提供するようになっていく。
この、甘味→小麦という順番は、そのままお店へと、甘味屋がラーメンを出していく流れと符号するが、戦前の下地があったことも見逃せないだろう。
~ 蕎麦屋のラーメン ~
一方、専門店化が進んだ現代と違い、戦前から戦後にかけては、(メニューが)ミクスチャーな庶民向けのお店も多かった。例えば「洋食・中華」や前述の甘味処のラーメンもそうだが、いくつかの要素がランダムに入り混じったお店が多かった。料理の基本は洋の東西を問わず、今でこそこういったお店は懐かしさを感じるが、当時は逆に最先端の「なんでも提供できる」お店として、料理人も腕の見せどころだったのかもしれない。
戦前、食材、メニューの「開国」が叶った後、真っ先に庶民の人気を博したのが洋食だった。コロッケ、チキンライス、オムライス、トンカツ、そして、スパイス料理はカレーライスとして、そして、広東料理はラーメンや日式の中華料理店として日本人の舌に合わせた料理を展開していくわけだが、そのいくつかが組み合わさり、また、従来あった蕎麦屋が、前述の小麦政策により中華麺も販売するようになるのは、自然な流れといえる。製麺機さえあれば、蕎麦、うどん、そして、中華麺を打ち分けるようなお店が誕生し、さらに戦後に入ると物資の乏しさから、言わば廃材でもスープを炊けるような中華そばは急速に抱き込んでいくことになる。
蕎麦屋ではあるが、中華そばのほうが人気というお店もあるくらいで、特に長寿庵、満留賀、辰巳庵、大村庵など、街蕎麦ともいえる互助組織を持ったお店では、蕎麦やうどんを打つ傍ら「中華麺の部」を持つお店が多い傾向にある。おそらく、技術面やマーケティングの情報共有がされたものと思われる。
~ 餅入りメニューの誕生 ~
餅入りラーメンは、これら2つのルーツを持って誕生したと思われる。さらにいえば、その餅入りラーメンの前にすでにあったのは力うどんだ。その元祖のひとつだと言われているが、関西にある「力餅食堂」である。1889年に兵庫県豊岡市で饅頭店として創業、廃業の危機を免れながら1903年に力餅食堂という屋号にした、というのが始まりで、甘味から定食まで雑多な食堂として関西で最大180店舗も展開していたという(基本的にフランチャイズ)。
初期はおはぎやあんころ餅など甘味を主力にしながら、その後満腹になる食堂→力持ちのための食堂→力餅にかけた言葉遊び的な要素を売りにして(屋号にまで入れ)人気を博したということらしく、その過程で力うどんもメニューに入っていった。いわば文字通り看板メニューのひとつである。
この力餅食堂は甘味屋と麺類をメインにした食堂であり、餅中華におけるルーツの2つの要素を兼ね備えていたことになる。
では、何故餅入り麺のメニュー生まれたのだろうか。
力持ち、というイメージからは腹ペコの男性をペルソナに据えた店の戦略が見えてくるが、麺類単品では足りない人へのサイドメニューという捉え方もできる。いつの時代も満腹という価値は正義である。現代におけるラーメンライスと同義、といっては言い過ぎか。
ただ、餅入りメニューの欠点がひとつだけある。焼きの場合は特にだが、調理に時間がかかるという点だ。かたくなるのでプレクックもできない。そこが現代に至るまで一部のお店にメニューを残しながら、普及しなかった理由ではないだろうか。
現在、ラーメン店は百花繚乱の多様性を見せるが、例えば家系ラーメンは「ライスと一緒に食べる」ことをひとつの魅力としている。ラーメンとライスという魅力は、ラーメンに餅という選択肢に近い満足感があるはずだ。そんな魅力を再発見し、再度餅入りメニューが増えていくことを願わずにはいられない。
~ 餅中華の魅力 ~
餅中華の魅力は、力うどんがそうであったように満腹になる、というもの以外に何があるだろうか。それは一年に一度、お正月に多くの日本人が食べるお雑煮にヒントがある。
お雑煮には(特に出汁や具材について)一家言ある人も多いだろうが、餅を入れることに異論を挟む人も少ないだろう。餅自体は縁起物として入っているが、餅の他の食べ方と違い、お汁の浸って、それが溶け合っていく過程とともに楽しむものだ。焼き餅を入れるところもあれば、煮た餅を入れるところ、ところによっては揚げ餅を入れるところもあるが、いずれにせよ、餅そのものを楽しむというよりは、お汁に十分に浸して食べるのが美味しい。
一般的に汁物の具材は(麺も含めて)あまりお汁に溶け出し、いわゆる煮崩れしてしまうことは、あまり望ましいことではない。それは煮崩れをするとお汁がどんどんと混濁してお汁自体も、料理全体としても美味しくなくなるからだ。
ただ、餅はその粘性によって溶け出しながらしばらく形を保つ。もちろん、グズグズに溶けてしまうのは誰もが望んでいないだろうが、餅と御汁の境界線が溶け合っていく手前の瞬間を捉え続けられるところに魅力があるように思う。まさにこの理屈が餅中華にもあるような気がしている。
~ 餅中華を探す秘訣 ~
餅入りのメニューがあるお店を探すには、やはり甘味屋か蕎麦屋になるだろう。甘味屋は定食屋然としてラーメン自体がメニューに載っているところなら多くの場合餅入りがある。
蕎麦屋の餅中華は、メニューに入っているところもあれば、メニューにはないが、トッピング感覚で頼んでも良く、快く対応してくれるところも多い。サンプル数が少なくて恐縮だが、メニューになくとも、「餅入りで」と頼んで断られた経験はない。恐れずに頼んでみてほしい。
ただ、寂しいのは、最近のお店で(特にラーメン店)餅入りをメニュー化しているところはほぼないといっていい。それは、前述のように調理の段階でやたら時間がかかってしまうことや、ライスなどのサイドメニューを拡充させているところが多いからであろう。せめて、年始などの限定メニューに餅を入れたものがもっと増えると良いのではないかと思っている。
~ 東京(近郊)で食べられる餅中華 ~
①ゑちごや(春日)
創業明治10年(1877年)。
もともとは青果店として始まり、大正期に甘味を供するようになった。菊坂といえば、1860年創業の旧伊勢屋質店があり、近所に住んでいた樋口一葉が生活に困窮した際通ったとされる。生涯のほとんどをこの菊坂で過ごした樋口一葉。後世まとめられた資料『樋口一葉と歩く明治・東京』には、
と記されている。付近にも本郷文学散歩と謳い、菊坂から神田小川町までを学問・文学の散策コースとして案内されている。そのスタート地点にゑちごやがある。甘味処ではあるが、昼は定食屋として近隣の勤め人を集めていた。
しかも数年前まで麺も自家製であった。太さが不揃いで、切断面のエッヂが立っている。中華麺というよりも打ち立てのうどんのような瑞々しい麺だった。
そして、甘味処だということもあるが餅の美味しさも際立つ。角張ったところがなく滑らかで米の甘みがある。ラーメンの提供は昭和に入ってからだというが、餅入りメニューの歴史を感じるという意味では店の雰囲気といい入門編にピッタリのお店である。
②ほそ島や(国立競技場)
創業1979年(昭和54年)
個人的に餅中華で最も好きなお店。蕎麦屋でありながら中華そば(と半カレー)が人気のお店である。将棋会館がすぐ近くということもあり、今をときめく藤井聡太さんが好きなお店でもある。
ここはメニューに餅入り中華はないが、注文をすれば快く応じてくれる。若い方が厨房の中心に立つようになり、スープはグッと白湯のようにうすにごりになってきた。カエシの影響か、若干の甘さが後を引くが、そのあたりが蕎麦屋の中華そばらしい。
蕎麦の中華麺というのも面白い。ラーメン専門店に寄せることなく打ち立てに近いような麺を出すところも多い。スープに浸っているとじきにダレてくることもあるが、それもまた味である。そもそも麺の打ち方が良ければある程度ダレてきてもしっかりしているものだ。このほそ島やの麺がまさにそう。極、細切り。江戸前の細切り蕎麦を思わせるフォルムと序盤のキレと後半のスープへの馴染み方を楽しめる二面性が良い。
また、餅がスープに溶け出すとトロっとしたスープと親和し、抜群に美味しい。僕は満腹になりたいとき、半カレーを選ぶよりも餅入りにする。
③山口家本店(浅草)
創業1946年(昭和21年)
餅中華としてすぐ思い浮かぶのがこの山口家。創業は戦後すぐ。まさに戦後の飲食店事情の典型を行く。甘味屋の中華そばというくくりも可能だが、甘味屋の強みは自家製餅だろう。焼く、煮る、揚げる、いずれかのパターンだが、2個入る店も少なくない。
山口家は個性というよりは餅中華の中では中庸。伝統の正道といったところだろうか。浅草の中心地より少し離れ、千束通り商店街に位置し、あまり観光に寄りすぎておらず、落ち着いて食べるのも利点である。
④大釜本店(南千住)
創業1928年(昭和3年)
千束通りの山口家からさらにディープなエリアへと足を運ぶと大釜本店が見えてくる。最近はカレーで知られるニューダイカマが隣にある。このエリアの飲食店はポツポツと離れ、点在しながらもキラリと光る個性を必ず持っているが、大釜本店はその中でも群を抜く老舗と言えよう。
冒頭で紹介した「甘辛ホール」の典型で、甘味と焼きそばを売りにしていた。また大釜會という互助会を持っていたようだ。蒲田、大井町、滝野川、高田馬場、宮仲(上池袋?)、寺島(玉ノ井付近?)、溝の口とお店があったらしいがその痕跡は現在はほとんど見当たらない。
特徴は餅を丁寧に焼くことでスープと溶け合い香ばしさが増す。店としてのスペシャリテは焼きそば。スペシャリテである焼きそばと中華そばは麺が違う(中華そばは浅草開化楼製麺)。浅草周辺に広がるシンプルなソース味。ラーメンスープも入れているのかソースで蒸し炒めしているような独特の旨味が病みつきになる。
⑤富士見野(新井薬師前)
創業1934年(昭和9年)
三代目夫婦が営む甘味屋。変わりゆく中野にあって時間がやや止まった感のある薬師あいロードに佇む。開店の11時からポツポツと客がやってきては団子やおむすびを買っていく。ただし店内のお食事は12時からである。
自家製の杵つき餅を丁寧に焼くところに甘味屋の矜持が滲む。チャーシューと餅が切れたら中華そばは終わり、なんていう店はそうそうないだろう。
とにかく抜群に餅が旨く、それがしっかりめのスープと溶け合うと、なんともいえない雑煮の煮崩した餅のような楽しみ方が可能になる。餅中華のひとつの理想形である。ネギの置き方といい甘味屋のサブメニューというよりなおざなり感は微塵もなく、看板商品といってもいいほどの仕上がりだ。個人的にオススメである。
⑥辰巳庵(浅草)
創業年不明(創業来60年前後とのこと)
辰巳庵や長寿庵、満留賀など街蕎麦共同体の中でも比較的中華そばに取り込む店が多いグループがある。無論餅を入れられるところも多い。
この辰巳庵は浅草というより千束の雰囲気をまとい、強い旨味が餅に合う。麺は残念ながら自家製ではなくなったが、出前は変わらずフル稼働。個人的には以前にも訪れた好きな蕎麦屋の中華そばのひとつである。
こういう旨味の強いスープとの相性のの良さを再確認すると、ふと、現代でも餅を入れたら旨そうないくつかのお店が頭に浮かぶ。せめて正月前後くらいはそんな風習が生まれてもいいのではないか、と思う。
⑦甘味処あずま(高円寺)
創業1969年(昭和44年)
昭和44年創業。夫婦だろうか。二人で営んでいる。長年甘味屋という空間を共にしてきた二人の長続きの秘訣だろうか。良いコンビネーションをとったかと思えば、お客さんが少ないとみるとフラっと女将さんは店を出、良い頃合いで店へと戻ってくる。
石油ストーブ特有の灯油の香りと醤油の香りが混ざり合い心地良い。そこに餅が入る。1/8のゆで卵もチャーミングだ。餅の下に敷かれた麺の麺線がキレイに整っている。今様の映えありきのものではなく、丁寧な仕事ぶりが伝わってくるところがいい。キャリア54年の芯の強さに敬服するのだった。
⑧ぎんねこ(浦和)
創業1926年(大正15年)
その名を『喫茶・洋食シルバーキャット』と言ったが、戦時下、言葉狩りの中で、直訳の『ぎんねこ』に変更した歴史がある。そんな老舗の大衆食堂の辞書には、(ごはん、麺)少なめという文字はなく、美味しくてお腹いっぱいという理屈だけが渦巻いている。
戦後、洋食の食材の入手に苦しみ、蕎麦屋として再スタートを切り、近隣の勤め人を満足させるためメニューを増やしていき、自家製麺にし、量も増していった。浦和の胃袋を支える食堂は2023年も時代を爪弾きにし、普遍の満足と満腹を提案し続けている。
餅入のメニューは“ちから中華” 「ちから」というのは「力持ち=力餅」から来たと言われており、関西方面で大勢力となっている力餅食堂が発祥だと言われている。
silver cat has nine lives
猫に九生ありコロナ、物価高、飲食店を取り巻く環境は厳しさを増すが、いまだ地元の人達に熱狂的な支持を受ける。
⑨花屋(日暮里)
創業1945年(昭和20年)
もともとはその名の通り生花を販売していたそうだが、戦後甘味屋へと転身する。現在は甘味とともに餃子も美味しいことで知られ、度々メディアにも登場する。
餅入りラーメン。他のメニューがサッ、サッと配膳されていく中、餅入りは焼くがためか少し辛抱が必要。だが、この計算されていない時間のかかりように萌える。その間をつなぐため、蕎麦前の餃子があるのだ。ビールをお供に静かに待つ。
⑩大黒屋本店(平塚)
創業1950年(昭和25年)
もともと蕎麦よりラーメンが人気の蕎麦屋として有名だったが、遂に2023年にラーメン専門店になっていた。
ただ、もち入りメニューは健在。スッキリとした漆黒のスープに焼き色のついた餅が映える。そして蕎麦屋の発想では決して出てこない独特のパリパリとした麺がやわらかくなる餅とコントラストを描くようにして調和する。
デカランなど大盛りメニューのお店としても知られるが、満腹感を得るなら餅を入れない手はない。
⑪松屋(東中野)
創業年不明
東中野から徒歩でしばらくいくと街に映える蕎麦屋が目に入る。この店はラーメンも抜群に美味しく、しかも、自家製の中華麺が他の蕎麦屋よりもしっかりしていて更に良い。そこに餅を入れてもらうと乾物風味豊かなスープに溶け合っていき、種物中華の魅力を発散する。
蕎麦屋の(餅入り)中華そばは自家製の中華麺で、甘味屋の餅中華は自家製餅で個性を発揮するケースが多い。そういうキャラクターの個性を感じるのも食べ歩きの楽しみだ。
⑫銚子屋(稲敷市)
この店は明治時代から江戸崎の趨勢を見守ってきた。もともと雑貨屋を営んでいたが、戦前より飲食店に転換、レシピは変わってきました?と尋ねると、「今のところは(変えるつもりはない)ね」とサラリと答える。そう答える今の主人もすでに80を超える。
競馬の美浦トレセンの近くにあり、競馬関係者にも身近な食堂。焼き立てのカリッとした部分はそのまま食べ、中のもちもちした部分はスープに十分に浸す。寒い時期にはなおさら良い。
⑬甘味かどや(西新井)
創業大正年間ラストは西新井かどや。食堂としたのは戦後すぐ。そして、その後昭和30年代から建物から机、椅子などに至る調度品もすべてそのままだと言うから恐れ入る。トイレもいまだ汲取式である。
かどやを最後に据えたのは「自家製餅、自家製麺」であるからだ。蕎麦屋の餅中華は麺が自家製であることも多いが、餅はさすがにつかない。逆に甘味屋では餅は自家製であるが麺も自家製であることは稀だ。春日のゑちごやはかつて両方自家製だったが、現在麺は打っていない。
なにも自家製であることのほうが上という錯覚を植え付けてしまいそうだが、これはまったく意図していない。自家製であることが(コスト面でも)標準的だった時代の味わいを体感したいのである。かどやはこの麺を蒸して焼く、焼きそばも人気である。
透きとおり淡い色をしたスープに焼き餅が浮かぶ。その焼けてひび割れた部分からスープが入り込み徐々に溶け合っていく、そんな際の部分が好きだ。そんな雑煮のような楽しみ方と、張りのある麺のコントラストに酔う。
番外編① 大久保だんご店
本店は白金で甘味屋だが食堂として機能している。ただ餅入りラーメンはなく、トッピングもなく、磯部団子を添えることにした。
昼は多くのなじみ客で満席となる。かづ屋、などの人気店に囲まれながら、昼時は常に待ちができるほど。きちんととられたスープがあとを引くが、合間に団子を頬張るとこのスープには餅が合いそうにも感じる。醤油との相性だけではない魅力を感じていきたい。
番外編② 天神下大喜(仲御徒町)
言わずとしれたラーメンの名店である。ただ、その表の顔とは違い、夜営業は(余裕があれば)街中華のような遊び心溢れるメニューが提供されることもある。
その中で、時折常連に振る舞われる(勝手に入れられる?)のが餅だ。蕎麦屋の中華そばを愛す店主の趣味の部分もたぶんにあるが、大喜のラーメンと餅の相性はすこぶる良い。通うようになったら、いつの日かもしかしたら餅が入っている、なんてこともあるかもしれない。
ただ、それが餅中華の入り口になるかもしれない。食を自由に謳歌しよう。枠組みはあるが、ルールはない。そんなことを大喜は教えてくれる。