ラーメンアーカイブ来集軒⑧
~ 偉大なる異端 河野袈太郎 ~
堀切菖蒲園来集軒店主、河野袈太郎は温泉で有名な長野県下高井郡野沢温泉村出身である。1930年代の半ばの生まれで、いまだ現役で堀切菖蒲園の来集軒の厨房に立つ鉄人であるが、多感な成長期を戦後に迎え、食に対する執着が強い世代でもあった。
戦後、田舎でもろくに食べるものがなく、多くの若者同様に一縷の望みを持って上京する。ただ、頼るところもなく、日暮里で日雇い仕事をする日々。ついには職場にあったカボチャをくすね、大目玉を食らってしまう。
そんなときにある縁で知り合った男を訪ねることを思いつく。その男とは三野輪万蔵。実は三野輪万蔵は商売の傍ら、かなりの遊び人でもあり、梅毒を患い、野沢温泉に湯治に訪れていた。野沢の中でもそうした病気に効くとされていた温泉で河野はその三野輪万蔵と知り合った。正確に言うと河野の両親と交流があったようだ。(交流とはいえ、根っからの遊び人でなかなか帰らなかった三野輪をたしなめて東京に帰した、という感じだったらしいが)
その三野輪さんのおばあちゃんが営んでいたお店が鳥越神社の付近にあった。赤い提灯に「雲呑」と書かれたラーメン店である。
~ 石焼き芋の考案者 三野輪万蔵 ~
しかし、三野輪万蔵という名はラーメンの歴史の中だけではなく、むしろ別の業界で広く知られる存在であった。当時リアカーを引いて東京の様々な場所に出店したものといえば、ラーメンがまっさきに思い浮かぶが、1960年代には8000基以上の屋台を出していた別の業種がある。石焼き芋である。
三野輪万蔵はこの石焼き芋考案者と考えられている。もともと石焼き芋は大きな石で焼こうとしていたが、商品に傷がつきやすく実用化するには向いていなかった。そこで砂利など小さな石を用い、しかも、ラーメンのように屋台で売ることを思いついたのが三野輪さんだったと言われている。
その「石焼き芋の三野輪万蔵」という看板は今日知られる三野輪さん像だが、実は、先の鳥越のお店然り、ラーメンの業界にも大きな影響を与えた人でもあったようだ。河野さんが三野輪さんを頼っていった際、同じ長野人であることから、生駒軒を紹介する予定だった。生駒軒もまた蔵前や御徒町付近に当時多くの店舗を持ち、三野輪さんと親交があったのだろう。
だが、その話は立ち消えになる。もうひとつ東京で店舗を展開しつつあった来集軒も人手不足であると聞いた三野輪が、河野をそちらへと紹介することになったのだ。ただ、生駒軒と来集軒にはもともと一般的な店同士以上の繋がりがあった。この二軒のグループ間には、人の行き来があっただけではなく、女性が嫁いだりするなどの交流がかなりあったようなのだ。
現在の世界から想像すると、すごく稀なことのように思われるが、当時のラーメン店は今のようにチェーン店と個人店がそれぞれに独立してあったわけではなく、こうした店舗を展開するグループが大きくいくつかあり、そこを中心に広がっていったと考えられる(ホープ軒などの屋台に関しても同様)。そのグループ内でも、人や食材、技術の共有があったわけだが、と同時にこうしたグループ間でもこうした交流があったのだろう。情報がデジタルによって瞬時に得られる現代とは違う、よりベーシックなつながりだ。
そして、ここで来集軒の河野袈太郎が誕生するわけだが、その前にもっと面白い事実がこの話の流れの中に隠れていた。
河野さんは鳥越の店舗で、麺打ち修行を三野輪さんの手ほどきによって行っていたが、その製法というのは青竹に乗り強いコシを生む竹踏みの手打ち麺で、それは当時東京にあった広東料理の影響下にある中華麺とも違う、太く縮れ、力強い麺であった。来る日もその麺打ち修行に明け暮れるわけだが、そのとき、もうひとり兄弟弟子がいたという。
清水清
珍來の創始者である。
〜 珍來と三野輪万蔵 〜
堀切来集軒の河野袈太郎の兄弟弟子に珍來の創始者清水清がいた、というエピソードには相当に驚かされた。生駒軒と来集軒との繋がりだけでも十分な話のネタであるのに、石焼き芋を考案した三野輪万蔵の登場、そして、珍來という大グループとの想像すらしていなかった関わり。
だが、珍來(アーカイブは別でやるが)の創業は1928年(昭和3年)。創業者の清水はこのときすでに少なくとも4,50代になっていただろう。実際河野さんも清水さんのことを「かなり年上で、すでに結構なじいさんだった」と言っている。また、珍來は製麺所を持つとともに戦前にもラーメン店を営んでおり、何故改めて麺打ちの教えを請うたのかは不明である。
株式会社珍來が発行している社史(1988年発行)を見ると、
と記されている。その後1930年(昭和5年)珍來式手打らーめんを考案。昭和10年に葛飾区小菅水戸橋通りにささやかな店を開店、と続く。
ただ、河野さんが当時の様子を述懐する。清水さんは一度(商売を)失敗なさって、再起をかけて鳥越会(互助会のようなものだろうか)を頼って来た。そこで製麺を改めて二人で習った(?)、と。その麺は先にも書いたように竹踏みの手打ち麺である。
戦前珍來の麺がどのような形状なものなのかは不明だが、少なくとも社史にも「様々な改良を重ねて現在の麺に至る」と書いてある。その過程の中に、戦後再起をかけるべく手打ち麺の研究を三野輪万蔵と行った、という歴史があってもそれは不自然な話ではない。
その経験も得て、清水さんは千住に再度珍來の麺工場を、千住新橋のたもとに直営店を開く。その際、三野輪さんが「現金を新聞紙にくるんで清水さんに渡し面倒をみた」(河野さん談)。そして、三野輪万蔵を調べると珍來の番頭であったとする記述もある。先に書いた三野輪さんのおばあちゃんの店には雲呑の文字があった。珍來が戦前売りになっていたのは支那そばと雲呑である。また東京の珍來を追っていくと御徒町にも店があったとされる。これが三野輪さんのご家族が経営していた店なのだろうか。いずれにせよ、清水さんと三野輪さんは珍來の仲間だったのだろう。ここは改めて珍來史の中で追求していきたい。
ただ、来集軒と珍來に共通する手打ち(もしくはそのような形状の)麺のルーツはこうしたところで繋がっていたということだ。
つづく