【季織亭】~ 20周年ラーメン ~(2000年編②)
季織亭のパパさんこと川名秀則さんは生前、半ば冗談、半ば本気でこんなことをよく言ってお客さんを楽しませていた。
「俺はさ、ラーメン作れないから」
小麦蕎麦というありそうでなかった立ち位置で、ラーメンのような、そうでないような、ただ、ラーメン好きや食を愛する人たちを十二分に満足させる美味しい料理を提供し続けた季織亭。ジャンルや定義を超えた季織亭の魅力は、いみじくもラーメンというジャンルが素材や製法を研磨しクオリティが上がってくる以前から一部の熱狂的なファンによって語られ、また、時代が追いつくようにして再評価されていったと言えるだろう。
~ 季織亭の歴史 ~
季織亭の歴史を簡単に振り返ろう。
~ 季織亭のコンセプト ~
転機は2000年ということになるだろうか。ラーメンを提供し始めて季織亭を知るようになった方も多いだろう。ただ、コンセプトはずっと一貫して、安心安全の食材と正しい調理、そして、それが一番美味しい、である。それは食の生命力を喚起させる。話題を得るためのギミックではなく、古典的であり普遍的な「正しい材料と正しい調理法こそが美味しい」という考え方は、ラーメンというジャンルにも通ずるというポリシーを貫き通した。
ところで、季織亭がお弁当(お惣菜)屋だったということを体験している、もしくは知っている人はどれだけいるだろうか。料理の心得があったママさんと保険会社を経てステーキハウスで肉を焼いていたパパさん。そもそも出発時点でラーメンではなかったというところに、その後の独自性の萌芽を見る。
このコロナ禍で、テイクアウトが中心となるや、素早くお弁当の提供を行うなど、その強みを大いに発揮したが、やはり、下地に季織亭初期のキャリアがあることは間違いないだろう。
以下、公式より。
まさにここに書かれている通り、ラーメンを通じてだけではなく、何のメニューを通じてでも食の正しい価値を提供したいというのが季織亭のルーツなのだ。その中で、ラーメン=小麦蕎麦として20年の歩みを刻んでいくことになる。
~ 小麦蕎麦としての季織亭 ~
ただ、小麦蕎麦の魂は主にパパさんが込めていた。経堂時代、2階の酒席における料理は、ママさんが用意するが、1階、そして、2階で締めなどに提供されるラーメンはパパさんが麺を打ち、スープを炊き、そして、お客さんへそのうんちくをとうとうと説いていた。
使っている食材や製法のうんちくをブランディングのために掲示するお店も多いが、季織亭の場合、コンセプトがもっと上流に大義として存在しており、が故に様々なうんちくを必要としているのである。2階でそれらの“口上”を飲みながら聞く、もしくは、聞きながら食べるというのは恒例であり、楽しみの一部であった。
その独自なスタイルを通して、ラーメン界との交流も生まれていた。当時町田で一部のマニアを熱狂させた「勇次」の田中さんとは食材を通じて交流があった。後の「圓」である。また、「地雷源」の鯉谷さんも長い付き合いがあった。「凪」もいろいろな方が店を訪れ交流を重ねていた。貫かれたポリシーとはまた別の、人懐こいパパさんの人となりがまた人を惹きつけたのだろう。
季織亭がクラウドファウンディングの力を借りて、自宅の一部を店舗に改装し、居職の店舗として復活したのが2017年。スタイルとしては、経堂時代の1階と2階の融合であった。また、手打ち麺教室を開催したり、落語の寄席を誘致したり、よりお客さんと近いお店になっていた。クラウドファウンディングを経たことがそうさせたのかもしれない。
~ パパさんの早逝 ~
だが、2020年。まさに小麦蕎麦が20年を迎えた年に、川名秀則さんは亡くなった。大病を患い、闘病生活を続けながらも常に料理のことを考え、麺を打ち厨房に立った人だった。最後に会ったときも、ベッド上で新たなレシピが思い浮かんだと嬉しそうに話してくれた。
実はパパさんは、もともと会社員勤めで、食に関しては特にこだわっていなかったという。それがママさんこと川名信子さんと出会ったこと、また、「正常分子栄養学」の講義を偶然受けたことが転機となり、栄養が身体をつくっていくことに深く関心を抱くようになり、それがその後の季織亭のコンセプトになっていく。
食材や料理のことを語るときは熱っぽく、それに対して「でましたパパさんのウンチク!」とふざけると、まぁこれがないとオレらしくないでしょ、と笑っていたことが忘れられない。知識やレシピも惜しげもなく教えてくれたが、レシピなどを書き留めた分厚いノートを見せてもらったときは、まさにパパさんの人生そのものが詰まっているような気がした。飾らない人柄で、分け隔てなく接してくれる人だったが、食材や小麦そばにかける熱量はまっすぐで、計り知れないほどだった。
あの熱っぽい語り口が名残惜しい。僕はお店の人とお客さんという以上の関係をもたせてもらった。本当に感謝でいっぱいである。吉田松陰は人生を農事に例え、何歳まで生きようと、その人生は四季のように営まれるものだ、と説いた。果たしてパパさんの季織の紋様はどうだったのだろうか。あちらの世界でもおおいに語りまくっていてもらいたい。まだ先になるが、いつかまた天国でパパさんの小麦そばを食べに行きたいと願う。それまでウンチクを溜め込んでもらおう。
~ 季織亭の料理 ~
季織亭の料理の数々を振り返ろう。
一品料理は実に多彩だった。言ってくれれば、それ作るよ、といったスタンスだった。和食を中心に中華や、パパさんが得意のステーキも焼くことがあった。
現在は、ママさんと、季織亭最後の弟子、北さんが店を任されている。季織亭の弟子としては、三軒茶屋の臥龍が有名であるが、その臥龍のラーメンは鶏白湯で、季織亭のラーメンとは大きく異なる。季織亭が授けた知恵は、ラーメンの作り方ではなく、もっと大きな意味での食の価値なんだろう。
その季織亭の手打ち小麦蕎麦のバリエーションも多岐に渡った。基本の醤油、塩に加えて、つけ麺、香り高い自家製辣油を使用した香(ファン)辣油のつけあたりが定番だったが、限定品だけでも、
などがあった。手打ちの麺が力強いこともあり、つけ麺や冷やしメニューも非常に人気が高かった。まさに小麦蕎麦と呼ぶに相応しいランナップだった。
~ 季織亭がラーメン業界に与えている価値 ~
人類は小麦と出逢って生き延び、今がある。小麦とは切っても切れぬ友達。古代小麦は改良され、洗練された現代の小麦と違い、栄養素を多く残したプリミティブな状態。無垢の友。ただその過程でポストハーベストや強引な品種改良が行われたとも聞く。グルテンフリーよりもそんな過程を見つめ直す機会。改めて、小麦はどんな友だったのか。
麺にするのには向かないスペルトをパパさんが懸命に小麦蕎麦に仕立てる。「どう、拉麺になった?」と笑っていたが、残念ながら拉麺ではなくて、季織亭の小麦蕎麦になっていた。「そうだよね!」更にパパさんは笑った。また、それが良かった。
小麦蕎麦という名前に込められたパパさんの思いは、ラーメンの歴史に一石を投じ影響を与え続けていくだろう。味ではなく、その向き合い方が今後も一つの王道として多くの店や文化に継承されていくことをファンとして切に願う。