ラーメンアーカイブ人形町大勝軒④
~ 時代背景 ~
渡辺半之助さんが『支那御料理大勝軒』を開業したのは1912年(諸説あり)。大正元年である。日式ラーメンを初めて提供したと言われる浅草来々軒が1910年の創業。1910年代前半といえば日清・日露戦争を終え、いよいよ、帝国主義の色合いを強めていく時代。世界的にも植民地を含めた欧州各国の領土が4/5を占める中、一触触発の状態であり、そのつかの間の静寂を楽しむように庶民文化が育まれていったに違いない。
その中で生まれたラーメンを考えるときに、ラーメンだけではなく食文化全体がどういう流れで変化していったのかを知る必要がある。江戸時代に開国してからの食に関する簡単な年表は以下のようなものである。
明治維新を経て、一気に欧米の食材や食文化が日本へ入って来る。いわゆる食の西洋化である。そして、西洋料理を日本流にアレンジして日式の「洋食」が誕生していくことになる。この時期に人気だった日式洋食のメニューは、コロッケ、チキンライス、オムライス、トンカツなどだった。
肉を食べるという文化も広がり、これもステーキ(という西洋の形)ではなく、日式の牛鍋として広まっていく。当時インドを植民地にしていた英国を通して入ってきたスパイス料理はカレーライスとして定着していくのも同様に日本風アレンジである。
~ 日本における中華料理の歴史 ~
そして、中華料理はどうだったか。
江戸時代初期、外国との窓口だった長崎出島には、ポルトガル人や中国人が多く滞在していた。1689年(元禄2年)は、中国人居住区として「唐人屋敷」が出島に建設、そこに住む中国人は貿易商などの華僑がほとんどだったが、彼らは料理人を中国から一緒に連れてきていた。そうして中国人向けの中華料理店が、当時すでに長崎にあり、その多くが広東省や福建省の人であったと言われる。
その後長崎では、中国の料理や他国の料理を融合させた「卓袱料理」が生まれ、大皿料理として親しまれていたが、店舗としての中華料理が広がっていくのは、1870年の日清講和条約締結以降、日本に中国人が徐々に増え、中国人居住区が長崎や横浜にできてからの話だ。いわゆる南京街(後の中華街)である。1884年(明治18年)に聘珍樓、1892年に萬珍樓が誕生している。いずれも横浜の南京街だ。
ただ、この時点では、南京街の店は中国人向けのお店で、日清戦争が始まり、華僑が激減、困ったお店たちが日本人向けに商売をするようになってはじめて日本に定着していったと言われている。
日清戦争が終わったのが1895年。そこから大正(1912年~)にかけて、晩翠軒(虎ノ門)、維新號(開店当初は神保町)、陶々亭(長崎)、山水樓(日比谷)といったお店が次々に誕生する。例えば維新號は1899年に開業している。
~ ラーメンの誕生は必然 ~
こうした広東料理に代表される中華料理が普及していって、次第に愛されるようになっていく流れの中でラーメンは登場する。登場するというよりは、人気メニューとして脚光を浴びる、といったほうが正確かもしれない。なぜなら、來々軒にしても大勝軒にしても、『支那料理』のお店と謳っていたからだ。
そして、西洋料理がコロッケに、インド料理がカレーライスに、肉料理が牛鍋になったように、この中華料理もラーメンという日式の親しみやすい料理へと進化した過程で一気に日本人に広がっていく。画期的な発明というよりは時代の流れが生んだ必然のメニューであり、ゆるやかな食文化形成の一部であったのだろう。