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2024年12月15日礼拝説教「知らせはクリスマス、しるしは飼葉桶」(ルカ2:12)

説教アウトライン 福音理解の深化  
① 飼葉桶がしるし
② キリストの低さ
③ 飼葉桶の光栄

(中心聖句) ルカ2:12
あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。

(参照聖句) ルカ2:8~11
2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを[福音として]告げ知らせます。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

(参照聖句) ルカ2:7&16
2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。

(参照聖句) ピリピ2:6~8
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

(参照聖句) ガラテヤ4:4~7
4:4 しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。
4:5 それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。
4:6 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。
4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

(参照聖句) Ⅱコリント4:7
私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号

知らせはクリスマス、しるしは飼葉桶
ルカ2:12
 先々週12月1日は、主イエス誕生の祝い(クリスマス)が、どのような順序で始まったかのお話でした。主イエスは「悔い改めたら神の国に入る」と言って、救いの道を説きました。また主イエスは、十字架の死による贖いによって、救いの道を開いたのです。しかし初代教会は、さらに、主イエスご自身が救いの道そのものであると理解しました。主イエスは〈わたしが道である〉(ヨハネ11:6)と言われました。救いの道を語り、救いの道をつくった、この主イエスは救いの道そのもの。ここでいう救いの道とは、救いのための良い知らせ(=福音)と言ってもいいでしょう。
 主イエスの説く福音を信じ、主イエスの死を伝える福音を宣べ伝える初代教会は、主イエスこそ福音そのものであるという理解にも到達いたします。そうであるからこそ、初代教会は聖霊に導かれて福音書を残したのですし、その福音書のマタイとルカには主イエス誕生に関わる記事が書かれたのです。
 前回、私たちはルカ2:11の〈今日〉ということばに注目しました。本日、私たちはの中心箇所はルカ2:12であります。しかしルカ2:10、御使いのことばの最初の部分にも注目したいのです。私たちの聖書にはこう書かれています。〈御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます〉(ルカ2:10)。
 天の御使いは〈この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます〉と言いました。ここで〈告げ知らせます〉と訳されていることばをもっと正確に訳すと、次のようになります。〈福音として告げ知らせます〉。この〈告げ知らせます〉と訳されている動詞は、福音を告知する(福音を知らせる)という意味の動詞なのです。
 ですから田川健三訳では〈汝らに大いなる喜びを福音として伝える〉。岩波改訂訳では〈お前たちに大いなる喜びを[福音として]告げ知らせる〉となります。初代教会は、主イエス誕生の知らせもまた、福音として記述しました。それは難しいことが分からなくても、シンプルにイエスを神の子キリストと信じて救われるからでした。
 一言祈りをいたしましょう。「神様。主イエスが死んで復活した紀元30年から何十年かの歩みのなかで、初代教会は主イエス・キリストが世に来られたこと(お誕生)の素晴らしさにも目が開かれました。そのことが今を生きる私たちにもクリスマスをお祝いするようさせていますから感謝します。クリスマスは、この世に来られた主イエスを賛美し、歌う祝いです。また同時に、クリスマスはこの世に来られた主イエスを宣べ伝える、伝道の祝いです。主よ、今朝は、私たちがどのようにこの世に来られた主イエスを伝えるか、さぐってまいります。主よ、どうか、この礼拝を祝福してください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(飼葉桶がしるし)
 ここにいる皆さんのなかで、私も含めて「天使をこの目で見たことがある」という方はいないと思います。天使は、神のお使いであって、聖書によれば、神からの大切なメッセージを伝えるために遣わされることが多いのです。私たちには、聖書があり、聖書の理解や祈りを導いてくださる聖霊がおられるので、天使が来ることもないのでしょう。
 しかし、本来の故郷とはいえ旅先でもあるベツレヘム、しかも宿屋に泊まれなかったヨセフの妻であるマリアの出産は、夫のヨセフだけはいて、ひっそりと孤独なものだったでしょう。しかしひとりの御使いは、ベツレヘム近郊で夜番をする羊飼いたちに告げたのです。〈今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです〉(ルカ2:11)。
 〈救い主〉とは当時のローマ皇帝アウグストゥスの称号でもあり、幼子イエスが当時の最高権力者と同じ呼び方で呼ばれています。〈主キリスト〉とは「油注がれた主なる神」。「神に任命された神」と言ってもいいでしょう。レオン・モリスという人は〈主キリスト〉について「可能な限り最高のことばで幼子を描写している」と注解しました。
 その夜、神は他の誰にも知らせずに、天使たちを派遣して、この一群の羊飼いたちにだけ、御子の誕生を知らせたのです。主イエスの誕生は間違いなく〈大きな喜び〉の福音でした。もしこの町にあなたの大好きな歌手か俳優が来たと聞いたら、間違いなく駆け付けるでしょう。また目の前に、王様か天皇陛下がいたら深々とお辞儀をするに違いありません。
 赤ん坊とはいえ〈救い主〉である〈主キリスト〉がこの近くで生まれたとは、それ以上の衝撃でした。天使たちは羊飼いたちに「捜しなさい。拝みに行きなさい」とは言っていません。しかし〈救い主〉である〈主キリスト〉がこの近くで生まれたことは、そのような指示を出される必要はないのです。時代劇で、水戸黄門の印籠が出たり、「余の顔を見忘れたか」と言えば、自動的に平伏すような話です。
 事実、羊飼いたちは、御使いたちが天に帰ると話し合って〈さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう〉(2:15)と行動します。クリスマスの醍醐味は、来てくださった主イエスの知らせを聞くこと、そして聞いたことばに促されて行動することです。
 しかし、どうでしょう。羊飼いたちは、〈救い主〉が生まれたのは〈ダビデの町〉であるベツレヘムであると知ることはできました。しかし、それはベツレヘムの町のどこなのでしょう。何の目当てもなく、この日、赤ん坊が産まれた家を捜して、家々を訪ね歩くのでしょうか。
 違います。主の御使いは、羊飼いたちにこうも述べたのです。2:12〈あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです〉。〈しるし〉というのは証拠のことです。証拠がなければ、正しい判断ができないはずです。
 羊飼いたちが〈救い主〉でもないのに別の嬰児を〈救い主〉にしてしまったり、逆に〈救い主〉なのに正しい幼子を無視してしまうことのないように、天使たちは主なる神から羊飼いたちに「〈しるし〉を教えてあげなさい」と言われていたのです。「羊飼いたちよ。〈あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます〉」。
 さりげなく、ほんとうにさりげなく〈飼葉桶〉と出てきます。〈飼葉桶〉とは、羊や山羊や馬やロバや牛の、家畜たちが口を突っ込んで食べるための餌箱です。キリストが家畜小屋で産み落とされたと推測されるのは、この〈飼葉桶〉のゆえに、です。ルカ2:1-20が救い主誕生の日のもっとも詳しい記事なのですが、そのルカ2:1-20の言わんとすることをつかむ鍵のひとつが〈飼葉桶〉なのです。
 どうしてでしょうか。幼子が何を揺り籠にしたかなど記録しなくてもいいはずなのに、この単元では三度も〈飼葉桶〉ということばが出てきます。
 2:6-7〈ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである〉。満室か、謂れなき差別か、マリアとヨセフは宿屋に泊まることができなかった。嬰児を〈飼葉桶に寝かせた〉とあり家畜小屋での出産とされるわけです。
そして2:16〈そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた〉。紛れもなくこの幼子が〈救い主〉であり〈主キリスト〉であるしるし、キリストは〈飼葉桶に寝ている〉のですから、夜の寝静まった人家を訪ねる必要はなかったのです。起こしても構わない(?)獣しかいない家畜小屋を訪ねたのです。

(キリストの低さ)
 それにしても、家畜小屋を示す〈飼葉桶〉。それだけが〈飼葉桶〉の役目でしょうか。いいえ、〈飼葉桶〉にはさらに多くの意味があります。
 ひとつは〈飼葉桶〉の低さです。もしキリストが、王宮や金持ちの家に生まれていたら、貧しい羊飼いたちはその家を訪ねることはできなかった。それこそ門前払いだったでしょう。羊飼いたちは、貧しいだけでなく、当時、職業的な差別を受けていたといわれています。神はそんな羊飼いたちにキリスト誕生をいち早く伝え、救いに与らせたいと願ったのです。
 キリストの誕生について、パウロはピリピ人への手紙でこう言っています。ピリピ2:6-8〈キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました〉。キリスト誕生(すなわちクリスマスの出来事)は、神が肉体を纏って人となられたのでキリストの受肉とも呼ばれ、またそれが〈ご自分を空しくして、しもべの姿をとる〉ことであったのでキリストの謙卑とも言われます。
〈飼葉桶〉はキリストの謙卑(自らへりくだること)の分かりやすい象徴です。そしてピリピ人への手紙にあるようにキリストの謙卑の徹底が〈十字架の死〉にまでつながっていきます。ベツレヘムはカルバリへ。〈飼葉桶〉は〈十字架〉へと続くのです。

(飼葉桶の光栄)
〈飼葉桶〉は、言ってみれば、神の低さの象徴でした。もうひとつだけ〈飼葉桶〉から語らせてください。〈飼葉桶〉は人ではなく家畜が使う餌箱ですが、キリストを宿した〈飼葉桶〉には、神からの光栄があるのです。羊飼いたちは、その夜、血眼で赤ん坊の寝ている〈飼葉桶〉を捜したかもしれません。羊飼いたちにとっても〈飼葉桶〉は親しみはあっても、取るに足りないもの、重要ではないはずのものでした。
 あの十字架という死刑の道具もそうですが、〈飼葉桶〉もかの幼子が寝かせられたことによって光栄ある存在となりました。そして私たちも〈飼葉桶〉のように取るに足りないものかもしれませんが、イエス・キリストを宿すことに導かれた器なのです。
 クリスマスの意義を語る意味で、パウロが書いたガラテヤ人への手紙4:4-7を外すことはできないと私は思っています。そこには、キリストの降誕と、聖霊の降臨が、二重の派遣として並行的parallelに語られています。
 新約聖書ガラテヤ人への手紙4:4-7〈しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。4:5 それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。4:6 そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です〉。
 罪ある私たちの救いのために、イエス・キリストは最初のクリスマスの晩に、この世界に派遣されました。罪深い世界の〈ダビデの町〉の家畜小屋の〈飼葉桶〉に寝かせられました。それと同じように、〈御子の御霊〉である聖霊が、私たちの心に、神から派遣されるのです。私たちの心も、この世界全体のように罪深く暗いはずです。しかし十字架で死んだイエス・キリストの御霊が、私たちの霊と魂と肉体に宿ってくださいます。
 これこそがキリストの救いです。〈この民全体に与えられる、大きな喜び〉です。私たちの信仰の大先輩であるパウロは、人間もまた〈飼葉桶〉と同じように入れ物であり、家畜用の藁や草が入れば〈飼葉桶〉でも、宝が入ればどんな性質の箱であっても宝箱になることを知っていました。パウロは言います。Ⅱコリント4:7〈私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです〉。
 私たちは、家畜小屋のような世界にキリストが来てくださり、十字架にかかって死んでくださったこと。そして神からの救いとして〈飼葉桶〉のような私たちの心にキリストが(キリストの御霊が)宿ってくださることを感謝しましょう。〈飼葉桶〉のような低さと光栄を同時に、私たちは、キリストのお父さんからいただいています。
 祈りましょう。「主よ。どうか、あの晩の羊飼いのように、私たちを捜して、神とキリストの救いに与る人が、ひとりでも多く起こされますように。個人としても、群れとしても、私たちはイエス・キリストを宿しております。いよいよキリストを宿すにふさわしく、私たちをきよめ、喜びと感謝にあふれさせてください。力ある救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

  

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