H23_岩手_053

俺たちは最初っから最後まで世界のド真ん中に立ってるんだぜ。という話。

タイトルの写真は、盛岡の北にある岩手山という山。火山で、岩手県では一番高い2,038m。山頂に祀られた薬師如来に礼拝してるのは俺。

岩手県の地元紙に岩手日報という新聞があって、それに3か月に1回くらいコラムを書いている。みんなが忘れたころにやって来るけど、編集の人と俺だけは忘れていない。このあいだ第3回目の原稿が掲載された。

少し長いけど、全文をnoteに上げるよ。


世界のド真ん中に湧く「泉」


私たちはいつも、誰かに対する自分の役割を生きている。家族に対して、道ですれ違う人に対して、同級生や同僚や上司に対しての「自分」を。

私は登山が好きなわけではなかったが、岩手山には学生時代、毎年何度も登った。伏流水が湧き出す水音。自分の耳鳴りしか聞こえない広大な夜。私の魂の故郷だった。

一度、不思議なことがあった。秋のある晴れた日、登って下山するまで、ただの一人の登山者にも出会わなかったのだ。八合目で広々と景色が開けた時、灌木と草花と岩石と空だけの世界に、私一人が立っていた。

私がその時感じたのは、誰かにとっての私ではない、ただの「私」だった。小さいような、とても大きいような。この世界に石ころのように置かれただけの私。これほど自分の命と存在を鮮やかに感じたことはなかった。

人は対人関係の網目の中に存在している。でもその関係より前に、世界そのもののド真ん中に人はちゃんと立っている。私はあの秋の日から、そんな根源に立つ自分を知ることが、生きていく上でとても重要だと思い始めた。関係に依存し過ぎず、もっと自分を信頼し、もっと納得いく生き方が出来るのではないか。


知的障害のある人たちの中に、しばしばこの根源の自分をごく自然に生きているような人がいる。関係の網目をさして気にせず、世界のド真ん中に平然と立っている。そんな人が絵や何かを制作すれば、やはり世界のド真ん中に平然と立った表現をする。

多くの人がその魅力に引き寄せられる。このような表現に触れる時、私たちは世界の真ん中に生まれてきた自分、誰かに役割を決められる前の自分を取り戻しそうになる。そこは根源からの伏流水が湧き出す、泉のような場だ。

こうした表現を社会に繋ぐ時、だから私は慎重でありたい。美術館。展覧会。私の職業は表現を社会に紹介し発信することだが、同時に、発信しないこと、社会に引き渡さないことの重要性を常にわきまえていたいと思う。


世間は、人が関係の網目の中で活躍することを、すぐに「善し」としがちだ。知的障害のある人が人知れず独創的な表現をしていれば、私たちはつい世間に喧伝したがる。そんな判で押したような「善し」が、大事なことを取りこぼしてはいないだろうか。

自分の表現が社会に繋がることを喜ぶ人は確かに多い。だが、すべての人がそうとは限らない。展覧会場に展示された自分の作品を見るなり、すぐさま撤収しようとした人を私は知っている。

またある人は、自分の作品のコピーをとられた時、明らかに動揺した。どうやら彼にとって、作品は二つ以上に増えたりしてはいけないものだったらしいと分かった。他の人が誇らしく喜びそうなこと、例えば作品集に掲載されたり、ポスターに採用されたりということがあっても、彼にとっては自分の聖域を犯されることでしかなかっただろう。

本人の願いではなく、関与する人の「評価を得たい」「衆目を集めたい」などの願望が投影されることもある。そんな思惑が善意というプラカードを掲げて人の心に踏み込み、その心の表現をせっせと社会に運び出したなら、やがて何が起こるだろうか。


自らの思いを語ることが出来ない知的障害のある人の心を、きちんと汲み取ることは簡単ではない。それでもその思いを感じ取ろうとし続けることは、善き関与の生命線だ。そこには、「障害者にこんな喜びと幸せを」という単純化された善意の押し付けを拒む、一人ひとりの異なる心という事実がある。誰もがそうであるように、障害があろうが、求める幸せの形は十人十色でしかない。

その事実を丹念に探り、尊重する中でのみ、私たちは人の存在の根源の力を受け取ることが出来る。泉は、澄んだ水をたたえ続けるだろう。

先日、私の勤める法人の福祉事業所を利用している二人の女性の絵画が、複製され県内の企業に納められたことが岩手日報の記事でも報じられた。それが「善きこと」である可能性を願う試みだが、結論を見極められるのはまだ先だと考える。それが作者にとってどんな意味を持つのか、注意深く見つめていきたい。


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