追悼: 白田一秀(PRESENCE, GRAND SLAM)
コマラジの番組を一緒にやっているプレイヤー誌の(元)編集長の北村さんからメッセージが入った。
「プレゼンスかグランドスラム持ってる?」。
僕は「白田に何かあったの?」と返した。
北村さんはこのあたりのハードロック系はあまり通っていない人なので、プレゼンスやグランドスラムという名前が上がってくることに、あれっ?と思ったのだ。
「亡くなった」。
嫌な予感は当たるものだ。
死因は脳出血。7月29日未明のことだった。
ここ数年の白田は体調を崩すことが多かったようで、それが遠因なのかもしれないが詳細は分からない。
プレゼンスはジャパメタ第2世代、つまり、ラウドネスなどの次の世代にあたり、80年代のジャパメタ・ブームを牽引した世代のバンドだ。
自分の世代からすれば、彼らのような存在を目の前にある憧れとして、コピーをしたりライヴに行ったりと、非常に近いところで見てきただけに、大御所世代が亡くなるのとは違ったリアルを感じて、切なさを超えた複雑な感情を抱かずにはいられない。
白田は、59歳と還暦を目前に亡くなった。
若い年齢で亡くなるのはそれはそれで悲しいが、59歳はあまりにもリアルなのだ。
いよいよこの世代がそのフェーズに差し掛かっている。
白田一秀は1964年5月1日に北海道の知床半島の真ん中あたりに位置する羅臼町に生まれた。
白田家は柔道一家で、当然のように白田も子供の頃から柔道はやっており、道東の大会ではいつも勝っていたというが、段位などは持っていないようだ。
音楽に触れたのもこの頃で、当然のように郷土の星、松山千春が入口だったという。
白田は中学2年の時に、一家で京都に引っ越す。
そこからは音楽にのめり込んだが、最初の楽器は意外にも先輩から5000円で買ったドラムだったという(ドラムを買ったのは北海道時代という話もあり)。
しかし、家で叩くわけにもいかず、ベースに転向。
そして高校に入り、ヴァン・ヘイレンを知ってからはギターを弾き始める。
最初に買ったのは、なんとフェンダーUSAのストラトだったという。
白田が最初に音楽業界に触れたのは、高校時代にアースシェイカーのローディーを始めたことだった。
80年か81年頃と思われる。
当時のアースシェイカーはまだデビュー前だったが、すでにそれなりに人気があり、ヴォーカルはラウドネスに加入した二井原実から西田昌史に変わっていたはずだ。
白田は82年、17歳の時にラジャスに加入し、83年まで在籍。
83年といえば"関西ヘヴィメタル東京殴り込みギグ"の第1弾が行われた年。
ラジャスは翌年の第2弾に参加し、その頃の関西メタルを象徴する4組を収録した『BATTLE OF METAL』がラジャスの初録音となる。
よって、白田のラジャス時代の録音は残されていない。
83年、白田は3代目のギタリストとしてプレゼンスに加入する。
きっかけは、西川と恩田のスカウトだった。
プレゼンスは、ブラック・リストのヴォーカルだった西川茂と、フェリアのベーシストで後にJUDY AND MARYで一世を風靡する恩田快人が出会いに始まる。
この2人が81年に結成した樹雷を母体に、82年にメンバーチェンジと共に発展的にプレゼンスへと改名した。
84年にドラムスの岡本"HIBARI"浩明が加入するまではメンバーチェンジが多かったが、以降、解散までの5年間は西川、恩田、白田、岡本というラインナップで活動していく。
アマチュアながらに大きな動員を誇るプレゼンスだったが、デビューは遅れ、87年にようやくのメジャー・デビューアルバム『PRESENCE』をリリースする。
この時代はインディーズがブームのようになっており、インディー作品を経てメジャーデビューというパターンが増えていたが、プレゼンスは音源をリリースすることがなかった(無料配布ソノシートは存在する)ため、それが遅れの一因であったことは間違いないだろう。
しかし、冷静に考えれば、当時の彼らは大学生くらいの年齢だったわけで、彼らがいかに早熟なバンドだったのかがよくわかる。
デビュー後は、ハードロック/メタルに括られながらも、カラッと明るいアメリカン・ロック的なサウンドと(メンバーもハードだけどヘヴィじゃないということは意識していたようだ)、メンバーのヴィジュアルの良さも含めて、この時代を代表するバンドへと成長。
中でも、白田のエディ・ヴァン・ヘイレンに大きな影響を受けたテクニカルなギター・プレイは一目置かれた。
アルバムを出すごとに新しい奏法を生み出すエディに触発されたのであろう、白田もトリッキーな新技を編み出すことに熱心で、そういったプレイは2ndアルバム『BLEECKER STREET』(88年)の随所に聴かれる。
また、速弾きギタリストにしては珍しく、弦高をかなり高めにセッティングしていたことでも知られている。
3rdアルバム『AWAKING DOGS』(89年)では、抑制の効いたギタープレイやソングライターとしても大きな成長が見られ、バンドとしてもさらなる可能性を感じさせる出来だったが、そのツアー中に解散を表明し、89年11月9日のMZA有明公演を以て解散した。
その理由は、グランド・スラムの結成のために白田が脱退するということだったと記憶しているが、確信は持てない。
グランド・スラム時代は、デビュー時にライヴを見たりアルバムを聴いたりしたが、その王道のアプローチに、あまり刺激を受けることはなかった。
その頃、海外ではすでにグランジの胎動が始まっており、個人的にも興味のあるジャンルが変わってきていた。
後期の作品は未聴なので、いずれ聴いてみようと思う。
そもそも、白田が書く楽曲はサウンドこそハードだが、メロディはフォーク的だ。
例えば、プレゼンスの3rdアルバム『AWAKING DOGS』(89年)に収録されているバラードの「TENDERNESS」は、白田が中学2年の頃に書いた曲が元になっているという。
そういった楽曲を立体的に仕上げていたのは、ポール・マッカートニーから影響を受けた恩田のベースラインであったと思う。
その後の白田は、J.D.K.BAND、DAIDA LAIDA、SEXXXなどいくつかのバンド活動と共に、L'arc-en-Cielのkenのソロ活動や、宇都宮隆、松田樹利亜らのサポート、音楽学校の講師などの活動を行っている。
少しミーハーな話もしておくと。
白田は典型的な美少年顔に183cmのスラリとした長身。
脚も長く、それでいてギターが凄まじく上手いとあって、当然のようにファンからの貢物の量は凄まじく、一時期は自宅のトイレがファンからのプレゼントでピンク一色に染まっていたとも聞く(真偽は不明)。
まぁそれも納得というか、そういうスター性のあるプレイヤーだったということだ。
なお、ステージネームのRUDEE(元々はRUDY)は、ベーシストのルディ・サーゾ(クワイエット・ライオット〜オジー・オズボーン・バンド、ほか)から取ったらしい。
元ベーシストであった白田らしいというべきなのか。
ご冥福をお祈りします。
追記
この記事を公開した後の8月9日に、公式のメッセージが出され、その中で1963年生まれ、60歳だったことが明らかになりました。
あと、血液型もB型と伝えられていたと記憶しますが、A型だったようです。
訂正いたします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?