モンターニュのつぶやき「スポーツにおける利他とは」 [令和3年4月12日]
[執筆日 : 令和3年4月12日]
「われわれは一生涯、何か日常茶飯事以上のもの、「今一つの世界」を求めないではいられないのです」
江戸川乱歩
昨日、日本人の霊性にも係る、怨霊についてつぶやきましたら、ロサンゼルスに在住の同期(ロサンゼルスのJapan houseの館長さん)から、興味深い展示会について案内がありました。日本の浮世絵・版画にみる「超自然」のセクションに人気が集まっていて、アメリカ人は、日本独特の八百万の神や怨霊の世界に魅力を感じるようですし、菅原道真関係の木版画も展示されているようです。大変興味深い企画だと思いますので、ご覧頂けると幸いです。サイトは以下の通りです。
日本人は、不思議といえば、不思議な人々で、虫の声を理解したり、他の動植物とも会話ができるし、もうすぐ国立博物館で開催される「国宝の鳥獣戯画のすべて」には、日本人の自然観が色濃く表現されている作品が多く出ていると思います。こうした自然観を持つ日本人ですから、西欧的にはありえない「河童」も、「天狗」がいても可怪しくはないのでしょう。この場合、存在とは、実在する形あるものでは必ずしもなくて、意識が生み出した想像的存在という意味ではありますが。
昨日から加藤秀俊(1930年~、京都大学や学習院大学の先生、国際交流基金日本語国際センター所長等を勤めています)さんの「独学のすすめ」(ちくま文庫)を読んでおりますが、随分昔に出た本(初版は1975年)ですが、学生さんに限らず、社会人はもとより、年金生活者であっても、何か心に秘めたものを持つ人、「やる気のある人」にとっては多いに得るものが多い本だと思います。加藤さんが強調しているのは、平凡な人間でも、まったくの素人であっても、ある特定のことに関心がある場合(大体は小さい頃にその関心が芽生えますが)、その関心を継続し、努力して学んでいく(修行も含め)ことができれば、プロをも凌駕することが出来るようになるということであります。
加藤さんは、そもそも、学校よりも独学の方が正しい学び方ではないかとも思っているのですが、学びこととは少し違いますが、オリンピックもあるせいかもしれませんし、コロナ禍も影響しているのでしょうが、水泳の池江璃花子選手(身長171㌢ですが、リーチはなんと186㌢)の活躍もありましたし、昨日は日本男子のゴルフの歴史を変えたとも言える、松山選手のマスターズ優勝もあって、スポーツを重視する声が大きくなっているのではないかと思います。
日本では、残念ながらゴルフが国民的スポーツであるとは言い難いのですが、松山選手のことはまた後でつぶやくとして、日本人のスポーツ礼賛的傾向というものについて、私はへそ曲がりのモンターニュでありますから、一言つぶやきたいのです。
古代ギリシャ、そしてローマ時代は、身体能力の高い人間(後のスポーツマン)は、ある意味で大道芸人的で、見る人(貴族階級)のための存在であったでしょう。身体能力は戦いのためのものであって、身体能力の高い男性は戦いがあってこそ、その存在価値が認められたということでしょう。戦いが日常であった戦国時代に生きた身体能力の高い武士は、戦いが非日常化した江戸時代には単なる侍(侍る人)となって、暇を持て余し、身体能力の低減を抑えるために、そして精神的修行のために、武道を行い、そうしたものが明治以降、近代的スポーツに変貌したとも言えます。が、しかし、身体能力の価値は基本的には、戦いで発揮される訳です。かつては誰かのための戦いが、今日では、自分のための戦いになっている訳です。
近代以降、人は神や仏から距離を置き、神や仏のため、或いは共存的生き方よりも、自己を規定し、そして運命を決めるのは、自分であるという意識を持って、自己の為に生きるようになったとも言えます。その典型的なものがスポーツではないかと思います。かつては領主や国のための身体能力が、個人に帰するものになったはずではありますが、ところが、未だに国家のためとか、他人のためにするスポーツが時々顔を出す訳です。その代表的な祭典がオリンピックではないかと。選手ファーストとは言いますが、果たしてそうなのかどうなのか。プロの世界は完全に商売をする人によって支配されている面が大きいでしょう。オリンピックはかつてはアマチュア選手の祭典でしたが、今はそうではありません。アマチュアもテレビのコマーシャルに出てお金を稼ぐ時代です。お金がないとスポーツが出来ない、優秀な選手にはなれない、そんな傾向が見えます。
なお、日本選手、特に女性選手の活躍は素晴らしいとは思いますが、色々なスポーツ競技が行われていますが、所謂発展途上国や紛争などの問題を抱えている国からの参加が少ないということです。そうした世界の競技環境で中で日本人女性・チームが優勝しても、私はそれほどには感動もしないのです、日本人選手は恵まれている、運が良いなあとは思いますが。スポーツには利他的なものがありますが、利他が無償のものであることが基本ですが、令和におけるスポーツはどうもそうでないのです。
コロナ禍ですから、余計にそういうことが目につくのです。ある選手が優勝する度に、身につけていたブランドの衣服等がまたたく間に売れる時代。身体能力が商品化される時代。自分の身体でありながらも、ある別の存在によって支配されている時代のスポーツ、怖いです。人間はいくらがんばっても、チーターや競走馬と走っても勝負になりません。熊、ライオン、トラと素手で戦っても敵いません。イルカのように自由自在に、そして速くは泳げません。飛べない人間は、走り幅跳び、三段跳び、走り高跳び、そして棒高跳び等で飛ぶ競争をするけれども、蝶にも蜻蛉にも勝てません。自然界で人間が勝てる相手は意外に少ないけれども、人間は動物にはないプライドがあって、身体能力で自らを誇示したいのでしょうが、どこか虚しさを感じます。人間はけったいなことをしている生き物だなあと、いまでは存在感が薄くなっている神様や仏様は、遠くで思っているかもしれません。
私は、もっとも人間らしいスポーツは、身体能力を活用して、戦って勝つことが至上命令的なスポーツよりは、むしろ意識(灰色の脳細胞」も含め)を使う、身体も使う、そして、道具も使うスポーツではないかと思うのですね。パスカルの言うように、宇宙で一番脆弱な葦でしかない、でも考える葦である人間が仮にスポーツに興ずるならば、心技体が渾然一体となったスポーツ、例えばゴルフ、これが人間にとって最も望ましいスポーツの一つではないかと思うのです。日本の武道の素晴らしさは、そうした心技体を分けないことにあります(でも、鍛錬を要求しますので誰でも出来るわけではありません)。ゴルフは武道的であり、禅的なもので、松山選手がアジア出身の選手として初めてマスターズで優勝できた背景には、きっとそうした禅的な無の時間が大きく作用したのではないかと思っておりますし、初めてマスターズに参加してからのこの10年で、人間としての成長があったからこそなし得た偉業ではないかと。武道に限らず、ゴルフに限らず、自己と他者を分けない無の時間を味わえるなら、そして、何かしらの人間的な成長をもたらしてくれるスポーツなら、どんなスポーツでも私は良いと思います。無心になって努力する姿に人は感動するという利他がそこにはありますから。(了)
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