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モンターニュのつぶやき「東京脳(文明脳)対京都脳(文化脳)の戦い?」 [令和3年4月27日]

[執筆日 : 令和3年4月27日]

「哲学者の任務は、目標を指示する点にあり、あらかじめ(思想の上で)その目標に到達していなければならない。もし途中で立ちどまって、そこに旗をたてたとしても、この旗は人をあざむくとことになるかもしれない。これに反して、政治家の義務は、困難の性質に応じて、自己の前進を工夫し、順序づけることである。・・・・・もし哲学者が目標に到達していなければ、彼は自分がどこにいるのか知らないのだし、もし政治家が目標を眼ざしていなければ、彼は自分がどこへ行くのか知らないのだ。」エマニュエル=ジョゼフ・シェイエス(1748-1836)「第三身分とは何か」(フランス革命を導き出した指導的政治思想家で、ナポレオンのブリュメールのクーデターを成功せしめた人物、桑原武夫「一日一言ー人類の知恵ー」から)

 「京都の精神」を書かれたのは、梅棹忠夫さんでしたが、梅棹忠夫(1920-2010)さんは、宗教学ではなく、生態学者、民俗学者であって、「情報産業」という名称の生みの親でもありますが、「文明の生態史観」(中公文庫)、「知的生産の技術」(岩波新書)等の名著もあり、国立民族学博物館の初代館長でもありました。また、イスラム教にも関心があったようで、日本中東学会初代会長も勤めた、こちらも大きな山、エベレストのような存在であります。
 私が関心を持つ学者は、おしなべて京都大学卒業の方が多いのですが、明治以降、日本の高等教育は、大雑把に言えば、首都、東京という都市文明の磁場に存する大学と、京都や大阪といった、かつて隆盛を極めた都の昔ながらの文化が息づいている磁場に存する大学によって牽引されてきたとも言えます。これをモンターニュ的に言いますと、「文明脳」と「文化脳」になるのではないでしょうか。
 東京に住んでいながらも、東京の街はよくは知らないし、ましてや京都はまったく分かりませんが、今回梅棹忠夫さんの「京都の精神」(1987年角川選書として出版され、2005年に角川ソフィア文庫に)を読みまして、考えさせられたのは、観光で身を立てるのではなくて、文化で身を立てるほうが持続性があると思われること、他方、観光というのは、非日常的な体験を売り物にする、日常性からの、文明からの逃避を可能にする体験を売ることではないかということ、そして、日本の美学の主流は武家の美学、マスラオ的なもの(競争的なもの)ではあるけれども、そうではない、京都的な美学(それ自体が価値あるもの)があってもいいのではないかということなどがあります。文化について付言しますと、「劇場型の都市」(なお、矢野暢さんに「劇場国家日本」という本があるそうですが、読んでおりません)という考えも面白いと思いますし、京都の街にある建物というのは、大体が17世紀からのもので、奈良に比較して新しいもののようで、そうした今も現役で生きている建造物を活用して、物語を演出するような、そういう体験的文化を売り物にも出来るということです。
 なお、京都の精神ということで言えば、京都の方は、中華思想をお持ちのようで、日本の文化は京都が標準になっているが故に、京都は絶対的最上級的場所であるということで、これはこれで否定はしません。しかし、問題は文化と文明という2つの質の違うものを考えますと、残念ながら文化優位論に賛成!というような日本の状況ではありません。日本は、経済が一番大事だと思っている国民が依然として多いし、米国の占領を受けたせいもあるでしょうが、大衆志向で、つまりは文明選好的な国でありますから、文化の中心的な都市が日本の中心になることはかなり難しい訳です。ましてや、マスラオ社会ですから、権力を握ることが出来る場所に人は自然に集まります。残念ながら東京脳に今のところ京都脳が勝てる見込みは少ないでしょう。
 が、しかし、都市社会、文明社会の脆弱さが露呈しているのが、今のコロナ禍。持続的な成長を遂げるには、梅棹忠夫さんが言うように、文明という収斂による画一化convergenceと、文化という発散性から生まれる差異化divergenceの両面のバランスが大事なんでしょう。そのほどよい環境(梅棹さんのいう「代謝系」と「愛着系」の程よいバランスのとれる場所)を日本の至るところで再生できるのかどうなのか、そう簡単なことではないでしょうが、他人の褌を過度に宛にする観光・飲食産業では痛い目を見るというのは、今回コロナ禍で懲りているとは思いますが。

 さて、東京脳の代表ではありませんが、慶応大学の堤林剣先生が書かれた本、堤林恵さんとの共著ですが「「オピニオン」の政治思想史ー国家を問い直す」(岩波新書)を読んだのですが、なんだかちょっと。ご案内のように、慶応は文明脳の代表とも言える、福沢諭吉の建学した大学でありますので、ここで学ぶ学生は、基本的に西洋志向で、文明推進派でありましょう。堤林さん自身、ケンブリッジ大学で博士号を取得されている慶応大学法学部教授で、人気ゼミの先生でもあるようです。他方、同じ名字の恵さんの方は、東大大学院で学ばれた方のようですが、現在の職業は不明でした。岩波の本にしては、生年月日が出ていないのですが、ネットで調べると出てくるので、あえて隠すことの意味合いを勘ぐってしまいましたが。
 ちなみに、この堤林という名字、全国に10名しかいないようで、どうやったらこうした名字を持つことができるのか、むしろそちらの方が気になりました。まあ、個人情報の事はさておくとしても、この方(剣さんの方)も、いわゆる「ではのうみ」タイプの方なんでしょうねえ。英国やフランスでの留学がありますので、文明を牽引する西欧の研究者等の著書からの引用が満載で、完全に文明脳、東京脳の方のように思えます。
 しかし、政治学というのは、西洋の学者のことを学ぶ学問なんでしょうかねえ。国家を問い直すといっても、別に日本の国家のことには一切触れていないし、どうもよくわからないのです、先生の意図が。本は法学部政治学科の「政治文化論」が原型となっているとはありますが、大学の授業の講義内容をそのまま本に活用するというのも解せない(それを受けた岩波さんもよくわからないけど)し、「歴史が与えてくれるかぎりの道具と衣装とセリフを身にまとい、スポットライトに照らされた舞台で目を凝らして語り続けよう。いつの日か次の役者に立ち位置を明け渡すまで、芝居を演じ続けよう。美しいカーテンを背にしたここが人間の、我々の生きる場所である」という最終章の最後の言葉を読んで、「なんだこれは」と思わない読者はいないのではないかと。
 著者は政治よりも演劇(シェークスピア)の方にご興味があるのでしょうか。というか、元総理の小泉純一郎さんではないけれども、政治もある種の舞台芸術ということかもしれませんが。こういう講義を聞かさせる学生さん、さぞかし独創的でユニークな人間となるように感化されるでしょう。が、しかしですねえ、税金を払うことのない学生に政治を教えることのメリット、本当にあるのかなあと。
 日本語には、国と国家という2つの語彙がありますが、辞書的には、国=国家という説明もあります。しかし、子供の国=子供の国家はありえないでしょうから、違いはある訳です。国家は関数で表せば、G(社会集団)=f(領土、住民、統治機構)ということなんでしょうが、そんなに簡単な概念でもないでしょう。国家が色々な変数をもった社会集団であるとして、その集団を運営・維持・監理するのが政治ということになるかもしれませんが、大学でわざわざ政治学科で政治を学ぶ学生さんは、単に教養として学ぶのではなくて、政治に係る仕事(極論すれば、住民を統治したい、権力を握る仕事がしたいということでしょう)に就きたいから高いお金を払って学んでいるのでしょう。でも、日本人の国政選挙の際の投票率を見ても、若者の政治的関心が高いとも思えないのに、どうして政治を学ぶのか、この辺がモンターニュにはまだわかっていないのです。
 政治を本当に知ろうとしたら、やはり税金の事を学ばないといけないのではないかと思うのですね。まあ私は経済学部卒なので、それが自然ですが、勿論、物を買えば消費税という間接税は払うでしょうし、バイトで稼いだら源泉徴収はされるでしょうし、年金積立もしているかもしれませんが、税金の事を真剣に考えて、初めて国家のことが分かるような気がするのです。私たちは一応、主権者という位置づけが日本という国家の中での立ち位置ですが、直接税として支払っている税金がどういう項目に支出されるかについて統治者からはなんの説明もないにも係わらず、黙ってお金を払い続けているのが日本の政治で、真逆的な西洋の政治(市民という主権者ありきのもの)を勉強して、どれだけの意味があるのかが分からないのです。

 堤林さんの本の話はまたいつかつぶやくこともあるかもしれません(特に思想家ヒュームのことを)が、梅棹忠夫の本の注釈に、2004年の京都(府)の人口は147万人、年間観光客数は4500万人とありましたが、ネットで検索すると、令和3年3月の人口は256万人、そして観光客数は、少し古いのですが、平成29年度は5362万人(外国観光客は743万人)となっています。数字だけを見ると、京都はもはや文化脳の街ではなくて、結構文明脳が支配的になってきている街なのではないかと、心配になりました。日本人は古いものへの郷愁の念を懐きつつも、なんといっても新しいものに目がない国民であります、モダンなものが好きなんです。というか、モダンに見えるものが。文化は今流行の、ナウいもの好きな日本人を虜にできて初めて生き続けることが出来る、そんな気がしますが、果たして、日本は文化的にどんなメッセージをこれから発信していくのか、京都に限らず、大阪は勿論ですし、金沢もそうですし、地方の文化が文明と共存できるための思索、思案が求められているのでしょう。

 今日の最後のつぶやき。来週予定していた東京マスターズ陸上連盟の記録会は、緊急事態宣言のために中止となり、参加費は返金されないという、まあ、踏んだり蹴ったりのような連絡が来ました。競争原理の働かないセクター(文化的ともいえる)というのは、どこか殿様的というか、進歩がないというか、それゆえに、効率性を考えるとどうしても、文化脳よりも文明脳になってしまう訳です。それにしても、参加費、惜しいなあ。

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