モンターニュの折々の言葉 358「人間が幸せに生きるための『交換』とは何か」 [令和5年4月5日]
今日は小学校の入学式がある日なのか、御めかしした親子連れを何組も見かけましたが、新年度、新学期が始まった訳です。しかし、この入学式というのは、子供本人よりも、親御さんの晴れ舞台のようになってきたのは何時からなのかなあと。普段は滅多に着ることも、履くこともなく後生大事にクローゼットや靴箱にしまい込んでいる服とピカピカ靴、そして、ご自慢のハンドバックを小脇に抱えたお若いお母さんの様子を見ながら、お父さんの姿は代わり映えしないなあと。
鎧兜のような男性のスーツ姿は、日本という男性社会とのお付き合いが旧態依然としていることの証明かもしれませんが、購買力のない男性よりも、懐が暖かい女性をターゲットにした商品が売れるというのも、これも時代の流れなのかもしれません。晴れの舞台に出かけることは殆ど無い、年金生活者は、家内から、春キャベツの特大セールをやっているから買ってきてと頼まれて、10円単位の安さの違いに、一喜一憂する日々でございます。
さて、今日も昨日に続いて、ゴルフ練習場に行って参ったモンターニュですが、身体を動かすと、脳が活性化するようで、特にランニングなどは良いとか。ゴルフの練習も悪くはない。運動のメカニズムは科学的なものではありますが、最終的には、感性とか感覚的なものになるようで、ゴルフはそうですねえ、文学とか、芸術を愛する心がないと、能力は上達しないのではないかなあと、ヘボゴルファーは思うのであります。ですから、そういう感覚的なものを習得するために、同じ動きを繰り返し練習しているというようなもの。作家の命は、「文体」とも言いますので、私は、ゴルファーの「文体」を極めようとしている、そんな毎日であります。
しかし、歳を取れば朝起きるのが早くなると昔から言われ、また、早起きは三文の徳などとも言われているのですが、商売人は確かに朝は早いでしょうね。先日、千葉の川奈でゴルフをした際、「自分にはゴルフの友達しか友達はいない」とおっしゃるゴルフグッズの販売を手掛ける会社のYさんは、コロナ禍では体面的な仕事が無くなったこともあってか、朝は5時に起きて、夜は10時に寝る生活になって、すこぶる調子が良いようです。
朝5時に起きて、夜は10時に寝るというのは、私の中学時代の生活リズム。朝の牛乳配達に間に合うように朝早く起きて、夜早く寝る習慣に。勉強? 放課後は部活の野球をして、夕食を食べて、風呂に入ってという生活でしたから、1時間くらいしかしていませんでしたが。
上京して予備校通いをしながら新聞配達をしていた頃は、朝は4時起きで、でも、寝るのは夜の12時前後でしたから、昼に睡魔が襲ってきて、授業中も居眠り。言い訳にはなりますが、睡魔と戦った時間が予備校時代であり、大学1年生の頃でした。
しかし、高齢者の年金生活者が朝早く起きるというのは、何か理由あるのだろうか。太陽が昇って来る時間に起きると何か楽しいことがあるとか、あるいは、反対に起きていないと不安でしょうがないという訳でもないでしょうし。夜早く寝るというのは、夜の楽しみ事が無くなったから早く寝るということなのか、どうなのか。
で、そのYさんが、昼食時に「自分には、定年というのはないだろうし、案外死ぬまで、何かものを売り続けるかもしれないなあ」と。自ら企業した会社の社長さんですから、定年がないのはそうなんでしょうが、私には、ものを売るという仕事がイマイチピンと来ない。それはそうですよね、熊ですから、物物交換すらしませんので。
モノといっても千差万別ですが、一応経済学部を出ておりますので、経済の基本はある程度は知っている。とは言え、実際に経済活動をしてきたという実感がないのは、この物を売る経験が少ないからなんでしょう。物を売った経験ということでは、高校浪人時代の花売りくらい。一日20個の鉢植えの花を生産者から預かり、それを見知らぬ町で見知らぬ人に売る仕事。なお、拙書を買ってもらうのも、物を売ることにはなるのでしょうが、これは多少の留保がつくかなと。留保というのは、一応、本というのは、他の生活用の製品のような物とは違い、良く言えば、芸術作品でありますので、物として扱われては困ると言うこと。勿論、本一冊一冊は品質は同じで、値段も同じですから、等価値という点では、他の商品との違いはないのですが、それでも違うと思いたい。
閑話休題 私が生産者から預かった20個の花の値段(原価)は、生産者がそれまでに投資した種から花になるまでの生産経費と、生産者が得る利潤を上乗せしたもの。この原価を基準にして、私の懐にどれだけお金を入れたいかを考えて、売値を決めて売るのが私の仕事。私の懐に入るお金を計算したのはこの時が最初でしたが、これは難しい。花売りの先輩たちにどの位の値段で売ったらいいかを訊いて、大凡原価の1割を上乗せして売った訳です。全部売れたら、一日2000円が懐に。1972年当時の2000円、今ならどれくらいかはわかりませんが、高校入学に際して随分と助かりました。
直接ものを売るという経験はこの花売りしか無い私なので、Yさんがそこまで固執する「物を売る』ことの魅力が、そうしてそうやって成り立つ商売がよくわからない。確かに売れたら儲かるというのはわかりますが、どれだけ売れるかが前もってわからないし、そもそも、売って儲けることの良し悪しがわからない。
そんな私の話しよりも、学術的に、こうした売ることで成り立つ社会のことを説明した文章を読んだほうが理解は早いでしょう。手元にある岩波書店『岩波 社会思想事典』に、「交換」の項目があって、そこに書かれていることを要約しますと、次のようになります。 「経済的・非経済的とを問わず、個人ないし集団の間で、財・サービス・・シンボルなどのやり取りを交換と言う。ジョン・スチュワート・ミル、アダム・スミス、さらにヒックス、ワルサスなどの理論を経て、交換によって需要と供給が一致するという、市場均衡が成立するという解釈を以て近代経済学となる。
しかし、マルクスは、資本家が労働者の労働力に対し、価値通りに貨幣で支払うことで成り立つ関係は、本来は等価交換になるはずであるが、結果として資本家は、不払い労働分の余剰価値を手に入れている。これは、見せかけの等価交換であり、現実は不等価交換という、資本家による労働者の支配となっているのが資本主義の本質の一つであると述べた。
経済上の交換が均等化に至るわけではないことは、古代ギリシャの哲人、アリストテレスもそれに気づいていた。貨幣が案出されると、利益を求めて富や財を産するための商人的交換が発達する。これを商人術と言った。
しかしながら、交換は経済的な利得活動や必需品の交換に限らない。モース(贈与論)によれば、有用物の交換だけが交換ではない。人間社会には、気前の良さ・名誉・威信を争いあうという、贈与による交換システムもある。モースの影響を受けたレヴィ=ストロースは、どの社会もコミニュケーションには3つのレベルがあると言う。それは、女性の交換・財・労力の交換・言葉の交換がそれである、云々」
大分理解が進みましたかな。確かに、人間の生活において、交換は欠かせないもの。日々の生活は交換なくして成り立たないとも言えます。交換はフランス語では、echang eで動詞はechanger。あるものとあるものを交換するのがechangerですが、取り交わすという用法もあります。
交換するという行為は、必ずしも等価交換による交換ではない訳ですが、市場というのは売り手と買い手が対等の関係であるべきなのでしょうが、実態は資本家と労働者の場合もそうで、不平等な関係にあります。ですから、ある物とある物、あるいは、ある物とあるお金が等価交換になるためには、両者の了解、合意がないといけません。それが経済学で言う、需要と供給の一致ということです。
実際的に市場において、需要と供給が上手く交換できている、つまり均衡が成立しているのであれば、問題はないはずですが、この需要と供給の交換関係が、実は見かけの均衡であるから、様々な経済問題(円安もしかり、物価の上昇もしかり、他方で、年金支払い額も賃金も増えないといった問題が)が出てくるということなんだと私は理解しております。
それと、経済学では考慮されない要素としての「満足度」があります。経済(学)は、統計学や確率論等を基本とした社会科学ではありますが、科学ではありません。人間の行動を科学的に、つまりは、数量でもって表そうとする学問。文学では主題にもなりえそうな、テーマである幸福感、満足感、といったことは分析対象にはなりえていない。
今日のまとめです。資本主義経済において得られる儲けには、経済活動を維持するための諸経費(宣伝費も含む)、人件費、設備投資、更に社会的義務の遂行のための経費などの経費が入っているのでしょうが、会社組織としての交換活動と、個人としての交換活動では、儲けの大きさもそうですが、儲けることの動機づけが違うでしょう。
会社は会社の存続が第一で、そのための交換の活動があります。半永久的な交換活動が。他方、個人の場合はその人個人の生命の終わりを以て交換活動は、一応終わりますが、坂本龍一さんが好きだった言葉「人生は短く、芸術は長し」ということもあります(念のためですが、ギリシャ語の言葉では「芸術」という訳は間違いで、正しくは「技術」です。ラテン語訳になって、vita brevis arts longaとなってから「芸術」と訳されていますので。)。
物を売るとしたら、売る人間が誇れるものを売りたいとは思います。単に儲けるためではなく、素晴らしいものだから、是非買ってもらいたいと思って、買ってもらうための営業努力もするでしょう。是非とも買いたいと思うものがない訳ではないのでしょうが、どうしても欲しいというようなものが最近はあまり無いような気もする。どうしても読みたいと思うような本も少ないように思える。なんとなく、二番煎じのようなものが多い。購買力を惹起させるような魅力的な商品がどうも見当たらない。
政治家だって、言わば投票という有権者(買い手)との交換を通じて政治家(売り手)になれる訳ですが、有権者の投票率が低いというのは、交換率が低いということ、つまりは政治家には魅力がないということを示しているのではないかと。
交換で儲ける経済活動は社会の維持に、あるいは、個人の生活において確かに不可欠なものではありますしょうが、私が求める交換というのは、がつがつした功利主義的な利潤追求ではなくてですね、笑顔を交換できるような関係の社会のための交換であって欲しいということ。16歳の時の、花を売り買いするという交換で私が一番感動したのは、花を買ってくれた人の代金としてのお金ではなくて、付加価値的に与えてくれた笑顔と優しい言葉でした。それは中学生時代の3年間の牛乳配達の時も、予備校生・大学生時代の2年間の新聞配達も同様で、私に交換を介して、大いなる生きる勇気と希望を与えてくれたのです。笑顔、人生でお金では買えない大事なものです。
どうも失礼しました。