趣味、建築(6)
概要
建築のリアリティとは、物理的な触感とエネルギーに包まれること。現代の建築は外部化され、手から離れたが、再び手に戻るプロセスが進んでいる。これにより建築家の役割が再定義されつつある。
「結論の不在」
私は、「もの」を扱うことにリアリティを覚える。これはつまり手に触れ、重さを感じながら、その「もの」の持つエネルギーに包まれることを意味する。したがって、私自身は建築を客観的な物理的なオブジェクトだと定義する。
ここで思い出されるのは、ハンス・ホラインの「すべて建築である」(1967)という言説だ【1】。初めて耳にした時は建築に対する価値観が拡張されるような感覚を覚え、学んでいる建築に対し不安を感じた。
しかし、やはり建築は一定の大きさをもち、人間がつくる、人間を畏怖させる存在である必要があると思うのである。したがって“ドラッグ”が作る幻想世界は主観性の強い共有不可能な無形世界である。リアリティとは感触が必要である。
私はリアリティの損失を「外部化」による然るべき結果であると捉える。外部化とは簡単に言うと、民家で行っていた出産やお風呂を沸かすなどのエッセンシャルな行為が病院へ移り、また電気ですべて解決できるようになったということである。
つまり、人間がやっていた行為が社会システムの要請によって資本社会へ飛び出した。同時に学問の分域化とも並行し、人口増加と専門化に対応している。
建築学科には大工きっかけで建築学科を目指した人が一定数いると思う。私もその一人だが、住宅以上のものを作るあるいは設計するという職も外部化されたものではないだろうか。厳密には大工に外部化されていたが、昔は家を建てることは大工との共同作業であり一般の住民でもある程度部材の名前や木材の板目・柾目などの知識を有していた。
つまり、自分が住む家についてそのプロセスから介入し理解していたのである。いまでも地方へ行き、家を紹介してくださるおじいさんやおばあさんは専門的な用語を用いながら説明をしてくださる。家への愛情を一軒一軒感じるのである。
一方で現在はどうだろうか。発注者と施工者が明確に分離し、約款にそった完璧な請負契約が成立し、住宅であったら瞬く間に完成する。請負契約に“仕事の完成”が18世紀のヨーロッパで明確に定義されて以降日本ではその方法を強く守ってきた【2】。住宅・ビルに関わらず愛情を持っているとは必ずしも言えない世の中で、どのような方法でそれを感じることができるのだろうか。わかりやすく自分で作ることが挙げられる。
アレハンドロ・アラヴェナは公共住宅において半分を手付かずの状態で引き渡すというプログラムを実行した。このポイントは二つある。一つは主体性による増築とカスタマイズ性。二つ目は建設コストの低減である。もちろん注目したいのは一つ目の点だ。
興味深い点は、近代以降土地から縁を切り、機能や見た目、交換可能性について議論されてきたが住み手の主体性は“そこに収められるもの”として扱われてきことだ。これは設計という概念がもつ“掌握”が引き起こす災害であったと言える。アラヴェナのやり方は一方で逃げのようにも思える。もう計画することから逃げたのかと。私はあきらめたと考える。逃げたのではなく。人間が持つ生活の輪郭が多様化し、またその重なりとその影響が予期できないものになったからである。 ここで人間へのアプローチを講義に即して振り返る。公園や公共施設など大きなスケールではチュミやコールハースが試みてきたシナリオの重ね合わせはこれに対する戦いのトラジェクトリーがある。これらの試みが示すのは、受け身的な計画への挑戦である。シナリオとは分析から得た未来の予測である。つまり計画の持つ懐によってそれらを受容しスイートしようという態度である。20世紀後期の失敗は人間を予測可能としたことかもしれない、と受講していて考えた。あるいはコントロールできていた時代なのか。
オランダ構造主義に通底する「部分が全体を構成する」という考えはオランダの特殊な地勢と宗教観が相まり、現在のラーム・ヴェットのシステムと思想を共有する。これを受けたチュミやコールハースは重ね合わせを単に“和”とするのではなく、“積”とすることからポスト構造主義的な考え方を提示し、全体を不確定なものとして扱った。
これらから学ぶこと、それは人間の集団には要素還元主義は適応できるのかと疑うことである。人間の数は数学的表記法に基づき1,2,3…とかけるが、その集合は要素が複雑に絡み合い結合する。それに応じて都市の構造も形態も如何様にも変化するのである【3】。したがって、それらを分解し、分析し再構築する手法は正攻法のように見えるのだが実はワンパターンしか提示できないというジレンマに陥っているのはないかだろうか。
アレハンドロ・アラヴェナのプログラムが用意したものとは人間の行為を誘発する余白である。そしてそれは人間の操作の意思を触発しながら生活の輪郭を自ら形作る活動の場を“つくった”と言える。
余白を作ることは新しくない。しかし、その塩梅と輪郭の外側を提供することがアドホックな活動を促すキーポイントだったのだろう。
近頃はVUILDの活動が気になっている。秋吉浩気はメタアーキテクトという言葉を用いる。アレグザンダーやハブラーレンを引用しながら、デザイナーがすべてデザインする時代から、「デザインする力を与える人」になると主張する【4】。各人が持つデザインを、実装・生産の側面からデジタルにサポートする、そういったシステムの構築こそこれからのデザイナー(建築家)の新たな役割である、と。彼自身デジタルと加工機を用い、素人でも施工できる“住宅キッド”や“設計アプリ”を開発することでメタ的なあり方を体現する建築家である。
われわれの生活はここ50年くらいをかけて「もの」自体をみるのではなく、その社会的な価値を見るようになった。これを「モノ」とすると、我々が交換する際に見ているものはそこにある「もの」が帯びた「モノ」の世界であると言える。手に持っているものがどのような影響を与えるのか、根本的な価値は世間・市場・メディア、これらの作用によって空中に漂うようになってしまった。さらに電気信号になりつつある。リアリティの語源は「もの(res)」であることを踏まえると、質量とかたちのある「もの」は相対的に貴重になる【5】。
ここまで述べてきた、主に建築における変遷は手から離れた建築がまた手に戻ってきたことを示すと思う。興味深いことにアレハンドロ・アラヴェナはアナログな民主化を図り、ここ15年ほどで秋吉浩気はデジタルを用いながら、施工に介入することで建築家の居場所を確保しながらデザインの民主化を試みている。
向こう20年、ムーアの法則によればコンピュータの性能は1万倍となりAIは“アーティフィシャル”ではないかもしれない。建築設計・エンジニアリングはAIにとって代わると言われている【6】。
我々は画面上のものに“リアリティ”を感じるようになってしまうのだろうか。我々が感じる模型の質量は幻想なのだろうか(あるいは日本人のみ?)。長い時間をかけ、手と脳をリンクさせてきた人間がそう簡単に変化することはないと信じて一次元的な「もの」をつくるほかないのだろうか。
ここまで、「外部化」による「もの」との精神的・物理的距離の隔たりから、実際に手を動かすことや協働による、再接触の過程に突入してきたことについて述べてきた。その背景には、人間の数や関わりかたが時代と共に変化し、計画学自体の変容が求められてきた歴史がある。さらにコロナの時代を経て、価値観の変化と相対化が早まり、世界中の人が同時にリアリティと正解の不在に直面するようになった。
そう考えると、「もの」をつくる力を得た彼らとともに固有のリアルを生み出し、正解に“して”いくことができるのはわれわれだけかもしれない。そう考えると、建築の分野のアイデンティティとは何か、徐々に掴めてきたと思う。芸術にはない社会性があるが故の悩み、存分に味わっていくほかない。
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