絶対零度
人には、到達できない領域が、確かにあるのだ。
例えば、円周率の終わり。
例えば、奇数の完全数の存在。
例えば、フィボナッチ素数のすべて。
とりわけ、今、僕が気になるのは、絶対零度。
セ氏マイナス273.15度の、世界。
理論上は存在しているが、到達は、不可能だ。
到達するためには、絶対零度よりも低い温度のものに触れなければ、到達することが、できないから。
そこに認識されているのに、手が届かない、領域。
僕は、手の届かない領域を、想像する。
存在があるはずなのに、存在できない。
・・・それは、まるで。
締め切り時間を確認するため作業中のデータを上書きし、少し休憩でもするかとコーヒーを片手に自分のデスクに戻った僕は、緊急事態に、学生時代にはまった数学美を思い出していた。
完全に、現実逃避だ。
「おかしい、おかしいぞ…。」
さっきまで打ち込んでいた、データが、どこにも見当たらない。
朝から四時間、ただひたすらに打ち込んだプログラム。
コーヒーを持ってくる前に、確かに書き込み終了と表示されていた。
安心して、パソコンのウィンドウを閉じた。
データの入っているUSBを、代表パソコンに差し込んだ僕の目に、あるはずの、書き込まれたはずのファイル名が、映ってこない。
USBにデータは必ず、あるはずなのに。
なぜだ。
なぜ、ない。
差し込んだUSBの中のファイルをのぞくも、データが、ない。
うそだろ・・・。
自分の体温が、ぐんぐん下がる。
さっき、バックアップ取った時には。
何度差しなおしても、データが出ない。
それどころか。
普通のファイルも、出なくなった。
汗がにじみ出てくる。
さらに、体温が、下がる。
・・・うそだよな?
四時間打ち込んだ、僕の事実はどこに行った。
今日の四時までに、アップロードしなければ、詰む。
うそだといってくれ!
今の時間は。
うそだと、いってくれええええええ!!!
15:45
僕は、固まった。
もう、どうにも、ならない。
「やあ、終わったかい。」
室長が、僕の肩を叩いた。
「室長。絶対零度ってご存じですか。」
代表パソコンの画面をじっと見つめながら、恐る恐る所長に声をかける。
「ああ、めっちゃ冷たい奴だろう。それが、何か?」
知識のない人に、うまいごまかしはできそうにない。
「データが、いきなり、なくなりました。」
データがどこにも見当たらない、画面を見つめながら僕は淡々と報告をする。
「ははは!そんな馬鹿な。今ここで開いて作業してたじゃないか・・・。」
キーボードをたたいてみても、どこにもデータは、見つからない。
「・・・絶対零度はね、存在しているけれど、存在しない、ものすごい冷たいやつなんですよ。」
4時間打ち込んだ、その痕跡が、見つからない。
「いきなりどうした?」
確かに打ち込んだ、はずなのに。
「・・・このUSBにはね、存在しているけれど、存在しない、ものすごいデータが入っているんですよ。」
いったいどこへ、消えたというのか。
「どういうことだね。」
あるはずなのに、そこに到達、できない。
「室長、間もなく、詰みます。」
16:00になった。
サーバーが、ダウンした。
「詰んだね。」
「詰みました。」
あちらこちらで、作業中だったほかの社員が騒ぎ出した。
「サブパソコンでなんとか行けそうですよ。」
「大丈夫!何とかなるって!」
「今から復旧、頑張ろう!」
「USBの寿命だったんだね。」
「みんな一回はやる失敗だから。」
信じられないくらい、やさしい言葉をもらっている。
なんという、温かい、会社なんだ。
データの存在していない中央パソコン画面を向いていた僕はすみませんでした、頑張りますと言おうと思って、振り返る…
室長の目が、笑っていない。
部長の目が、光ってる。
先輩の目が、呆れている。
同僚の目が、蔑んでいる。
同僚の目が、責め立てている。
僕は今、確かに絶対零度のセ氏マイナス273.15度を、体感した。
なぜなら僕は、微塵も動くことができない。
やさしい言葉を吐きながら、人はこんなにも熱のない冷たい目を向けることができるのだと、たった今、知った。
恐ろしさに震える僕。
急速に冷める熱に、さらに震えが増す。
今僕の横に来たら、おそらく絶対零度を、体感できる。
僕の恐怖は、絶対零度を、下回った。
僕は、もう、ここで働ける気がしない。
ということで、データはこまめにUSBにねじ込んでおきたい派の私です。