俺が、いちばん…
少し前に、ミニテニスというものを始めた。
ビーチボールをラケットで打ち返す、やや年齢層の高い人たち向けの、スポーツだ。町内会の役員仲間に誘われて、仕方無しに始めることとなった。
始めてみると、なかなかに面白い。
勢いよく跳ね返したはずのビーチボールが、空気抵抗を受けて、ややスピードを緩める。それを勢いよく、打ち返す。熟練者は、フェイントをかけたり、回転を加えて打ち返したりして、ビーチボールを華麗に舞わせる。
俺はまだ、初心者だから、うまく、それができない。
……俺はここでは、初心者だ。
初心者の俺に、熟練者は優しく色々と教えてくれる。
ボールの打ち方、返し方。
回転のかけ方。
勢いのあるサーブの打ち方。
どんどん自分に技術が増えていく。
どんどんうまくなっていく。
しかし、俺は、ここでは、一番未熟だ。
一番、へたくそで、惨めな、初心者。
一年経った。
新しく入ってきた仲間は、昔テニス部だったとかで、俺よりもうまい。
新しく入ってきた仲間は、現役の学生で、習得技術力が桁違いだ。
俺は、いまだ、ここでは一番未熟で、情けない。
半年後。
俺は嫁をこのクラブに誘った。
嫁はずっと文化部だった。
スポーツ全般が苦手で、手を出したことがないという。
いつもジョギングなど、個人スポーツを楽しんでいるが、チームプレイは苦手で、特に道具を使うものはやりたくないといった。
俺は駄々をこねる嫁を説き伏せ、クラブに入会させた。
嫁は、案の定、へたくそだった。
ビーチボールが打てない。
打ってもおかしな方向へ飛んでいく。
足腰だけは鍛えているから、ボールは追えるが、とにかくゲームにならない。
できの悪い嫁を見て、俺は仲間に謝罪する。
いつも手間をかけてしまってすみません。
いつも迷惑かけてしまってすみません。
仲間はみな優しく嫁を指導するが、いつまで経っても嫁は上達しない。
……嫁は本当に、どうしようもないな。
俺はクラブのない日、嫁を連れ出し体育館へ出向き、練習に誘った。
へたくそに向かって、強気のサーブを打ち込む。
上達の遅い嫁に向かって、フェイントをかける。
体力だけは一人前の素人に向かって、スマッシュをお見舞いする。
いつもクラブの仲間には、絶対決まらない技が、気持ちよく決まっていく。
こいつはいつまで経っても格下だな。
こいつがいれば、俺は一番へたくそではない。
こいつは俺が必ず勝てる相手。
こいつに遠慮は要らないな。
こいつに上達は求めていない。
ずっと下手なままでいい。
俺の優越感を満たすために。
お前には何も教えない。
お前は俺より格下なんだ。
俺の下にいる一人。
俺は一番へたくそではない。
安心感が俺の気持ちを高揚させる。
やさしい打ち返しなど必要ない。
お前はずっと打ち返せないまま、俺の欲を満たしていればいい。
いつしか嫁を打ち負かすことが、ストレス解消になっていた。
俺もずいぶん、上達した。
嫁は相変わらず打ち返すことすらできない。
そうこうしてるうちに、嫁が肩を壊した。
練習相手を失った俺だったが、今まで打ち込んできた実績がある。
今ならこのクラブの中の順位は、かなり上がっているはずだ。
……いたはずだった。
クラブの仲間に、俺のフェイントは、決まらない。
クラブの仲間に、俺のサーブは打ち返される。
クラブの仲間に、俺のスマッシュは受け止められる。
俺は自信を失った。
どこかに俺より未熟なやつはいないのか。
どこかに俺よりへたくそなやつはいないのか。
どこかに俺より惨めなやつはいないのか。
俺はクラブをやめた。
もうね!ホントひどいの、聞いてよ!!
旦那がさ、良い運動になるからって、ミニテニスを進めてきたんだけどさ!
私不器用だし、個人競技しかやってこなかったし、断ってたの!
そしたらさ、勝手にラケット買ってきて!
高かったんだからやれよっていうんだって!!
仕方ないから行ったんだけど、まあへたくそで迷惑かけちゃって!
クラブの人、めっちゃ優しく教えてくれるんだけど、旦那がとにかくひどいの。ちょっと私がミスるとへたくそ、ちょっとサーブが入らないと何やってんだってうるさいのなんの!!
みんなすごく優しいのに、旦那だけ鬼なんだわ。
でさ、練習するぞって連れ出されてさ、クラブのない日に。
行ったらめちゃくちゃ初心者の私にフェイントかけたりスマッシュ打ち込んだりするの。
自分の練習がしたくて誘うんだね、アレ。
ラリーをしてボールの感覚をつかみたいと頼んでも、試合形式が一番いいからと言って、聞かない。
サーブの練習がしたいといっても、受けるのが大切だからと言ってうたせてくれない。
毎回毎回、旦那のストレスのはけ口にされて、私は一向に、上達しない。
旦那ね、クラブの中じゃ、ぜんぜん勝てないみたいでさ。
そりゃ何十年もやってる人に比べたら、そういうもんだと思うよ?
でもさ、それがいやだったみたいでさ。
勝てない相手に試合を挑まないんだよね。
常に試合中も、これは練習だからって言い訳してたの。
勝てる相手に容赦がないくせにね。
私そのころになって、無理がたたって肩壊しちゃってさ。
旦那が優越感に浸れる、相手が消えちゃったわけよ。
上を見ないで、下に勝つことばっか考えてた、ばちが当たったんだって!
下がいる安心感が、なくなっちゃったもんだからさ。
自分がへたくそだっていうコンプレックスかかえてさ。
うまくできないストレスのはけ口無くしちゃった訳じゃん。
急にテンション下がっちゃって、クラブやめちゃったんだよ。
ハアやれやれと思ってたらね!
子供向けミニテニス教室の講師やるって言い出して!!!
私笑っちゃったわ!!!
あんなに格下の相手に容赦ない事した人が、できるわけないでしょ!
自分より格上の人に挑戦しなかった人が、未来の挑戦者を育成する気かってね!!!
ありえないわー、ホントありえない。
俺は気を取り直して、子供向けミニテニス教室の指導をすることにした。
やさしい指導が、評判を呼んでいる。
俺はこの中では、一番の技術を持つものだからな。
未熟なものの世話をするのは、上に立つものとして、当然のことだ。
上に立つものなんだから、いずれ厳しく指導をするようにしないといけないかもな。
でも、俺は、優しいから。
へたくそなやつらに、厳しい言葉をかけたりは、しない。
俺は、ここで一番だからな。
優しくみんなを、指導していきたいんだよ。
そしていつか、俺の指導で、すばらしい選手が育つはず。
その選手を、俺の助言で優勝まで導くのだ。
俺は、強い選手を、いつか必ず手に入れるぞ!!
ばっかみたい。
子供なんて、自分で努力して自分で育っていくのに。
子供の努力を、自分の手柄にしたがって、何が指導者なんだかね。
ラリーにならない思惑の応酬は、今も地味に、続いている、模様。