悪食
俺のばあちゃんってのはさ、菜食主義者だったんだ。
肉と魚をほとんど口にしない。
いつもタマゴと豆腐、練り物なんかばかり食べてた。
いわゆるベジタリアンってやつらしいが、食べないものと食べるものの境目が非常にあいまいだった。
卵、乳製品は普通に食う。
野菜は普通に食う。
かまぼこやちくわは普通に食う。
米は普通に食うが、硬く炊かないと貧乏くさいから気に入らないといって腹を立てた。
親子丼は鶏肉を残して食う。
カレーは肉をよけてルーだけかけて食う。
焼き魚は鯛の尾頭付きのみ食う。
ふぐの干物は酒のアテとしてなら食う。
いくらと数の子は大好物。
イカとタコとかにとえびが大好物。
人の食ってる焼きそばを奪ってはくさい肉入りは本当にまずいと文句を言いながら食う。
人の食ってる何かをつついてはまずいとかくさいとか不愉快なことを言いながら食う。
…ざっと思い出せるだけでも、これだ。
俺の幼い頃の食卓ってのはさ、ばあちゃんの独壇場でさ。
―――わしゃあ肉は臭くて食えんで、お前の海老をよこせ!
―――わしゃあ肉はまずくて食えんで、お前が食え!
―――わしゃあ魚みたいに臭くて貧乏臭いもんは食うと体調が悪くなるわ!!
―――わしゃあ肉と魚を食う奴の気が知れんわ!!
―――ああ、気持ちワルッ!!
勝手に人の皿から食いたいもんを拾い口にいれ。
勝手に自分の皿の肉を人の皿に放り込む。
スーパーのパック寿司を買ってきた日なんざ、ひでぇ事になったもんだ。
―――そんな気持ちの悪いもんよく食えるな!
―――こんなまずいの食いたくねえからマグロと交換してくれ。
―――食べれるあんたが食べなさいよ、もったいないでしょ!
―――うわ、このガリまずっ!お前が食え!
―――わしの食えるもんをなんでも食えるお前が食うな!
……寿司ってのは一パックに十貫入ってるだろ?
家族中が俺の寿司パックから食べたいもんを抜き取って、代わりにアナゴを置いていくんだ。
アナゴはさ、家族中みんなが嫌いでさ。
俺だけがアナゴが食えたんだ、あの家で。
食べることができる唯一の人間が俺だったから、アナゴばかり食わされたんだ。
俺の目の前にある寿司パックにはいつだってアナゴとガリしか並ばなかったのさ。八人家族だから、八個のアナゴが俺のパックの上に集まるのさ。
残りの二個はたいていイワシだったな。
イワシも不人気だったんだ、我が家では。
ガリもうまくないってんで、いっつも俺のパックに乗せられてさ。
…好き嫌いの多い家族ではあったけど、飯を残すとか、捨てるってのは美学に反するらしくてさ。まずいもんは、なんでも食う俺がすべて食ってきたってわけ。
なんて言うのかね、しょっちゅう俺は食ってるもんを貶されて育ってきたからさ。やけにこう、ひん曲がっちまったんだな、食に関するイメージってのがさ。
俺の食うもんはまずいもんばかりとか。
俺の食うもんはくさいもんばかりとか。
俺の食うもんは人の選ばなかった優先順位の低いもんばかりとか。
俺は大人になって、自由に物を食えるようになったわけだが。
どうしても、自分の食ってるもんがまずいもんだと錯覚してしまう。
どうしても、自分の食うもんは普通は食うに値しないものなんだと錯覚してしまう。
どうしても、自分は人が食わないもんをすべて食わなきゃいけないと錯覚してしまう。
人がまずいといったもんをうまいといって食う。
人がいらないといったものをうまいといって食う。
……俺はさ。
自分の素直な感想が言えなくなってたんだな。
自分の本当に食いたいもんが食えなくなってたんだな。
誰かがまずいといったらそれを食べに行くようになった。
誰かが残すようなメニューを完食するために店に入るようになった。
いつしか、人は、俺をゲテモノ食いと称するようになった。
いつしか、人は、俺を貧乏舌と称するようになった。
そんな時、俺は可奈と出会った。
可奈はおばあちゃん子で、おっとりした、実に場をまろやかにする…まろい娘だった。
……おばあちゃん子って聞いて、一瞬身構えたんだ、俺は。
俺のばあちゃんはさ、あんなんだからさ。
一般的なおばあちゃん子ってやつを間近で見て面食らったのも事実だけどさ。
可奈は、ただただ、俺のそばでぽけぽけしてたんだ。
おいしいものを作るのが好きと、ただぽけら~っとして、俺の横にいたんだ。
うまいという感覚が微妙にずれている俺は、素直にものを食うことができなかったが。
―――わーい!全部食べてくれた!
―――あっ、今おいしいって顔したの、見逃さなかったんだよ?
―――ねえねえ、私これ食べてみたいから、作ってみたんだ!
―――私食いしん坊なんだけど、武蔵くんも相当食いしん坊なんだね!
俺のおかしな食の癖は、少しづつ、少しづつ、変わっていった。
俺の食べるものは、可奈の作ってくれたうまいもの。
俺の食べるものは、可奈が食べたいと願ったもの。
俺の食べるものは、俺が食べたいと願った、俺がうまいと感じる食べ物。
俺が可奈と同じくらいまろい体になった頃、ばあちゃんがやけに忘れっぽくなった。
一つ忘れ、二つ忘れ。
いよいよ家という場所が自分の居場所であることすら忘れるようになり、施設へと入所した。
ばあちゃんは、色々とすっからかんに忘れちまった。
俺のことを思い出せない。
自分の事を思い出せない。
「あたしゃなんちゅう名前だったかいな?」
「香澄だよ、ハイカラな名前が自慢なんでしょ。」
俺の言葉に、表情を変えず…ぼんやり俺を見つめるばあちゃん。
「あんたは誰だったかいな?」
「孫の武蔵だよ、こっちは嫁の可奈。」
「おばあちゃん、こんにちは。」
嫁の言葉に、挨拶の返し方すら忘れたばあちゃんが目の前にいる。
「ご飯はまだかいな。」
ばあちゃんは、腹が減っているのかもしれない。時刻は、夕方五時半。…夕食の時間は五時だったはず。
ばあちゃんは、満腹であるという感覚を忘れてしまったのかもしれない。
ばあちゃんは、腹が減っているという感覚すらも忘れてしまったのかもしれない。
ただ、食べたいという人間の本能だけが、言葉となって外に出ているのかもしれない。
やけに足腰の丈夫なばあちゃんが、自分の部屋を出ていこうとしている。
「晩御飯もらって来るわ。」
部屋を出るばあちゃんをとめようと手を伸ばした時、ヘルパーさんがちょうどやってきた。
「香澄さん!もうじき団らんの時間だよ、お部屋戻ろう?」
「ご飯まだもらってないけど?」
「晩御飯はさっき食べたよ、サバの味噌煮、美味しいっておかわりしてたでしょ?」
「そうだったかいな。もっと食べたいんだけど。」
少し問答を繰り返したのち、ばあちゃんはテレビルームに連れていかれた。他の入所者たちと一緒に、歌番組を見るんだそうだ。
「ばあちゃん、サバの味噌煮なんて食べるんですか?」
「ええ、お魚が大好きでね、いつも一番に食べて見えるんですよ。」
あんなに魚を嫌ったばあちゃんが、喜んで食べる、サバの味噌煮。
「食欲旺盛なんですか?なんでも食べてます?」
「ええ、昨日はハンバーグだったんですけどね、本当にうれしそうで!」
あんなに肉を食う俺を蔑んだばあちゃんが、うれしそうに食べる、ハンバーグ。
「残したり、しないんですか?」
「ええ、好き嫌いなく、何でもおいしそうに召し上がってますよ!」
あんなに食べることのできるモノが少なかったばあちゃんが、何でもおいしそうに食べるように、なった。
「誰かのごはんを奪い取ったりしてませんか?」
「ええ?!そんなことないですよ、ちゃんと配膳されたものを完食してます。」
あんなに俺の食いもんを奪って食ったばあちゃんが、出されたものだけを食べるのか。
「文句とか、言ってないですか?」
「ええ、いつもニコニコと笑ってますよ、同じ事を何度も聞くことはありますけどね、ふふ。」
…ああ、本当に何もかも、すっからかんに忘れちまったんだ。
食い物の好き嫌いも、自分の天下も。
自分以外の存在も、自分という存在も。
……俺もいつか、食の乏しかった過去をすっからかんに忘れる日が来るのかなあ。
……俺もいつか、ただ流されるがまま言い返せなかった弱い時代を忘れる日が来るのかなあ。
……俺もいつか、人のいらないものばかり好んで取り入れていたつまらない日々を忘れる日が来るのかなあ。
俺はいつまでも…可奈の作る美味い飯を忘れたくないなあ。
俺はいつまでも…可奈が俺を変えてくれたことを忘れたくないなあ。
俺はいつまでも…可奈を愛し続けたいなあ。
「可奈、俺さあ、お前のことは絶対忘れたくないよ、うん…。」
「え、なーに、どうしたの??」
「あらあら!!ごちそうさまです!!ふふふ!!!」
目を体のように丸くする可奈と俺を見て、ヘルパーさんが笑っている。
「ごちそうさまなんていわれたから、おなか減っちゃったよぅ!」
「じゃあ、家帰って一緒にめし作ってくおっか!」
俺の事を忘れちまったばあちゃんは、ニコニコとテレビルームで手を叩いている。
誰かを否定することも無く、誰かに自分の存在を崇めよと叱り飛ばすことも無く。…気分よく過ごしているばあちゃんに、俺の挨拶は、不要だな。
俺は、横を歩く可奈の手をそっと握って、ばあちゃんの入所施設を出た。
可奈の手は、いつも通り、ぷくぷくとして、ぷよぷよとして…俺に安息をくれる。
…実に落ち着く、握りがいのある、すばらしい手だ。
…よし、今晩の飯は圧力鍋で作る簡単やわやわチャーシューにしよう!
俺の腹がぐうと鳴ったとき、つないだ手の先の可奈の腹も、これまた豪快にぐうと鳴り響いたのだった。