几帳面な私は、どうしても……許せなかった
……私には、娘が、いる。
神経質で、いつもイライラとしている私から生まれたとは思えない、ニコニコとして、よく笑う、とてもいい子。
「お母さん、今日もお弁当美味しかったよ!ありがとう!」
「…いえいえ、どういたしまして。さ、早く宿題やってしまいなさいね」
「はーい」
パタパタと、元気よく階段を上ってゆく娘を見送りながら…私は少しだけ、口元をゆがめる。
娘が…今からあの忌々しい物体の住まう部屋に侵入し、汚らしいものを抱きしめて、ブツブツと独り言を言うと思うと、自然と顔が醜く歪んでしまうのだ。
……今から15年前。
娘が3333グラムでこの世に生まれた時、初孫に大喜びした姑が縁起のいいぞろ目だとはしゃいで…ウエイトドールを作った。
―――実加ちゃんと同じ重さのくまさんよ!守り神になってくれるわ!大切にするのよ!
水色の、わざとらしい笑顔の熊のぬいぐるみに苛立った。
ベビーベッドを占拠する大きな熊に腹が立った。
……私は、シンプルで物のない生活がしたかったのに。
娘が新生児の頃は、まだマシだった。
目障りな熊は、汚されることがなかったから。
寝返りをしたり、はいはいをしたりするようになると厄介なことになった。
娘は気軽に熊に手を伸ばし、いつもよだれを擦り付け、ミルクの吐き戻しを浴びせ、ずれたオムツからこぼれだしたものを染み込ませるようになったのだ。
タオルで拭いたり、スプレーで汚れを落としたりしなければならず、ストレスがどんどんたまっていった。
姑がご丁寧に毎日娘の顔を見に来てはチェックをしていたから、熊を捨てるわけにはいかなかった。
もともと几帳面で神経質な私は、気が狂いそうだった。
汚れたものをきれいにしなければならない、汚れたものを部屋の中に置いておかねばならない。掃除をしても汚れた姑がやって来ては思う存分散らかして帰っていく。現場仕事を終えた旦那は除菌済のソファに着替えもせず横になり、玄関にはすぐ片付けるからと言って泥だらけのボロボロダンボールを積み重ねる。
……24時間、ずっとぞうきんと除菌スプレーと掃除機とほうきを持って部屋中を掃除していた。枕元に掃除道具を置いて寝ていたからか、夢の中でさえも掃除を続けていた。
憎たらしい熊を捨てられないまま、一日のほとんどを掃除に費し……長い時間が過ぎた。
娘はいつの間にか、熊がなければ寝られない子供になってしまっていた。
毎晩熊を抱いて寝て、熊におはようを言って目を覚ますようになっていた。
毎日熊にただいまを言って、ご飯の前までずっと熊に独り言を聞かせるようになっていた。
……私は、熊が気持ち悪くてならなかった。
どこを見ているのかわからない視線、薄っぺらい笑顔、はげた布地。
薄汚れた、寝臭い、忌々しい熊。
いつの頃からか、娘は私が熊を触ることを拒むようになっていた。
―――スプレーしなくてもいいの、汚れてなんかない!もう触らないで!
いつも笑っている娘が、穏やかに私の言う事を聞いている娘が、私に初めて…怒鳴り声をあげた。
あんなにも、嫌悪感をもって拒否されたのは初めてで…ショックを受けた。
娘の部屋に入ると、独特の饐えたニオイがするようになった。
……どれほど部屋の換気をしても、掃除をしても、ごまかせないニオイ。
娘の部屋のドアは閉まっているはずなのに、廊下を通るたびにニオイが漏れ出しているような気がした。
気持ちの悪い物体から得体のしれないウイルスが発生しているのではないかと不安に駆られた。
同じ家にいる事がたまらなく嫌で、悪夢まで見るようになってしまった。
私にさんざん意地悪をして死んだ姑に、熊を押し付けられて息ができなくなる夢を何度も見た。
旦那が不用品を溜め込んでいた頃の夢を見て、魘されるようになった。
更年期に差し掛かり、体調がおかしかったことは否めない。
二階の廊下を通るたびに、酸っぱいモノがこみ上げた。
階段を見上げるたびに、吐き気がした。
どうしても、私には…我慢ができなかった。
あの憎い物体を捨てるのは、さすがに申し訳ない。
きっと娘は、宝物を勝手に処分されて激しく傷つくに違いない。
……ニオイさえなければ、きっと。
……汚れをきっちり洗い流せれば、きっと。
追い詰められた私は、娘が部活に行っている隙に、マスクをして物体を捕獲し、洗濯をした。
みるみる茶色く染まる洗濯槽の水に、吐き気がした。
洗濯洗剤の爽やかな香りをもってしても消えないニオイに、恐怖した。
泡が立たないほど、長年の汚れはたまっていた。
何度も何度もすすぎなおして、ようやく水が濁らなくなったのを確認して……ようやく胸が、スッとした。
晴れ晴れしい気持ちで、完了のブザーが鳴った洗濯機の蓋を開けると。
洗濯槽一面にこびりついた……熊の、残骸が、目に入った。
経年劣化のあったぬいぐるみの布は、脱水機のパワーで…裂けてしまったのだ。
洗濯機の中で、すすけた水色と白い綿、赤いリボンにビーズの入った袋がぐちゃぐちゃになっていた。
部活から帰った娘の、色をなくした表情を見て……私はなんてことをしてしまったのだろうと、体が震えた。ショックが大きくて、どんな言い訳をしたのかすら、覚えていない。
せめてもの償いとして……熊の中身の綿を拾い集め、ちいさなクッションを作って、渡した。
……娘は、悲しんだけれども、私を許してくれた。
……娘は自分も作りたいと言い出して、裁縫にハマった。
お手製のクッション、小さなマスコット、お守り……いろいろ作っては、幼い頃のように独り言を言うようになった。
お守りにお願い事をすると、かなうのだそうだ。
くまさんが、新しい体をくれたお礼に願いを叶えてくれるのだそうだ。
曰く、長年の悩みだったニキビがなくなった。
曰く、長年の悩みだった慢性鼻炎が治った。
曰く、長年の悩みだったいじめがなくなった。
曰く、友達が頻繁に遊びに来てくれるようになった。
「お母さんにもひとつあげるね!」
……私に、もらう、資格なんてない。
……娘が大きくなって、家庭を持つようになったら…その時手渡そう。そう心に誓って、小さなお守りを受け取った。
「ありがとう、大切にするね?」
「今度はもう洗わないでね!」
……私は、お守りにお願い事はしていないけれど。
最近、ずいぶん、体調が良い。
……持っているだけで、ご利益がある?
真相は、わからない。
……あと何年かしたら、わかるかも?
私は、パタパタと元気よく階段を駆け上がる娘を見送って、ニコニコと笑った。