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常識

常識とは、いったい何なのだろう。

「そんなの、常識でしょう?」
「常識もわかんねえのかよ!ウケる!」
「ずいぶん、非常識ですね、あなたは。」

一般的に使われている、常識というものの不透明さに…時折戸惑いを覚えて、いた。

常識として、悪いことはしてはならない。
常識として、ある程度の知識が求められる。
常識として、気遣いを心がけるのは当然だ。

一般に広まっている、常識というものの、線引きの…なんという不明瞭な事か。

常識とは、人により、ずいぶん違うものだ。

だというのに、なぜ人は…常識として持ち合わせていなければならないものを、制定するのか。

人が生活をするうえで、個であることは実に不便であるから…集団で存在する必要があるため、だろうか。
いや、しかし…個人の中に存在する常識もまた、存在しているではないか。

集団で生活をするうえで、規律というものがある程度…必要になるはずだ。
誰もが個別に好き放題やっていては、集団で存在することは難しい。
個が集団で存在するために必要なのは、一定の行動パターンを引き出すためのきっかけであろう。

…常識は、個を集団の中に押し込めるための指針となるべき知識なのだ。

集団の中に人を置き、如何に個を突出させないようにするか。

そのために、常識という便利な縛り付けが、脳髄に叩きこまれているのではないか。
そのために、常識という便利な縛り付けで、本来自由である思考が制限されているのではないか。

常識という体の良い括りでまとめ上げられ、集団はやがて、個に支配される。

常識は、集団の中に身を置いた個を、支配する。
個は、常識によって塗り固められた集団を形成し…やがて個に、別の集団に、支配されるのだ。

常識は、生まれ落ちた時から、個を支配し続ける。

…親のいう事を子が聞くのは、常識だ。
…先生のいう事を聞かなければならないのは、常識だ。

常識は、年齢と共に…自我の形成と共に…様変わりをする。

押し付けられた常識に戸惑い、反発するものも多い。
押し付けられた常識に戸惑い、受け入れるものも多い。

知らず知らずのうちに、常識が個を、幾重にも重なって…縛り付けて、いる。

そして、集団の中に存在するうちに、やがて自身の中に常識が芽生え始めるのだ。

自分の生きてきた経験から培われた、生きる上で有用な知識、指針、目安、予測…自分だけの常識。

…私の幼い頃の常識は、ずいぶん限定された空間の中で形成されたものが多かったように思う。

玄関を開けっ放しにしておくと、野良犬が靴を銜えて行ってしまうから、玄関は閉めなければならないとか。
朝ご飯を食べないと、三時間目におなかが鳴って恥ずかしくなるから、朝ご飯は食べねばならないとか。
1のつく日は音読が当たるから、読めない漢字に振り仮名を振っておかなければならないとか。
うそをつくと、次の日気分が重くなるから、正直に努めねばならないとか。

…時が過ぎ、限定された空間が変貌すると、常識は変わった。

野良犬は姿を消したから、玄関は開けっ放しても良くなった。
朝ご飯を食べなくとも、おなかは鳴らなくなった。
1が付こうが付くまいが、音読など指示される日は来なくなった。
顔色一つ変えずに、うそばかりつく毎日を過ごすようになった。

周りの状況の変化、自分の意識の変化。

状況が良くなったり、悪くなったり。
意識が高まったり、地に落ちたり。

常識は、ずいぶんくるくると変わるものだ。

…私は、ずいぶん自分の常識を、塗り替えてきた。

人との付き合い方、ものの使い方、思考パターンに行動パターン。
趣味や、生きるためのテクニック、なんとなく纏っていた空気まで。

…自分の常識の変化に、戸惑いを感じる。

融通の利いてしまう、自分の常識のあいまいさに気づく。
融通の利いてしまう、自分の常識の危うさに気づく。
融通の利いてしまう、自分の常識の意味のなさに、気づく。

身につけていた常識という知識が、薄くなってゆく。
身につけていた常識という知識が、無意味なものになってゆく。
身につけていた常識という知識が、記憶の中から抜けてゆく。

そもそも、常識は…私という個人が、誰かと集団を形成する状況下において必要なもの、である。

集団であるために、集団を形成し続けるべく、常識が生まれるのだ。
私の中にある、私だけの常識もまた…集団の中に存在するための知識として活かされているのだ。

個と個が共に存在するようになった時点で、集団に、なる。

集団の中には、共に存在するために制定された規律が…常識として認識されることとなる。

誰かと共に存在するということは、譲歩が共に存在するということなのだ。

私が…誰かと共にあるために、集団であるために…自分自身で築き上げた自分の常識があった。

集団でいるために、共に心地よく過ごせるように、少しづつ積み重ねられていった…常識。

ふと、気がつけば。

私の常識は、実に容易く…塗り替えられていたのだ。

―――汚れ物を貯めないのは常識でしょう?
たとえば毎日の洗濯、同じ時間に毎日動かすのではなく、たまったら動かすようになったこと。

「たまってから洗濯した方が節約になるんだよ。」

―――使った食器はすぐに洗うのが常識でしょう?
たとえば毎日の洗い物、食べ終わったら洗うのではなく、食器洗い機がいっぱいになったら洗うようになったこと。

「一気に洗った方が効率良いんだよ。」

―――いつ緊急情報流れるかわからないから、テレビは付けとくのが常識でしょう?
たとえば毎日のテレビ視聴、取りあえずつけておくのではなく、見たい番組が放送される時だけつけるようになったこと。

「電気代がもったいないよ。」

―――言いたいことはすぐに言うのが常識でしょう?
たとえば毎日の小さな愚痴を吐く瞬間、口を開いて文句をこぼすのではなく、文字で不満を書いて握りつぶすようになったこと。

「ぐちぐち小言聞かされる方の身にもなってみたらどう?」

…今日も、私の常識が、変わった。

ひとつ、脱ぎ捨てた上着のポケットを、勝手に確認してはならない。
ふたつ、脱ぎ捨てた上着のポケットから、出てきたものについて…問い質してはならない。

誰かを苛立たせる事は、集団として共に過ごす空間の居心地が悪くなる。

私の常識として、集団で存在するからには…共に居心地の良い時間を過ごしたいと考えて、いる。
私の常識として、集団は居心地の良い空間を共にすべきだと考えて、いるのだ。

…現実は、世知辛い。

居心地の悪い空間で、日々仕事をこなす。
居心地の悪い社会で、日々悶々と暮らす。
居心地の悪い住宅で、日々無気力になってゆく。

…このところ、私の常識は、ずいぶん目まぐるしく…変わっている。

誰かと共に過ごすのだから、私の常識を押し付けるのはいけないこと。
誰かと共に過ごすのだから、誰かの常識を認めなければいけない。

…私は、私の常識を、ただひたすらに変えてきたのだ。

私の常識は変わってきたけれど、誰かの常識は変わったのだろうか。
私の常識は変わってきたけれど、誰かの常識は…変わっていないように思う。

私は自分の中の常識を、いとも簡単に手放したけれど。

誰かは自分の中の常識を、ただただ、まっすぐ、差し出してきた。

自分の常識というものは、変わって当たり前のものだと思っていた。

自分の常識を変える気のない、誰かがいることを知った。

私の中の、当たり前の常識が…変わる。

誰もが、誰かと交わることで、個別の常識が…共有されてゆく、それが私の中にある、常識。

常識を変えない誰かを目の前にして、自分の一貫性の無さに気が付く。
常識を押し付ける誰かを目の前にして、自分の弱さを知る。
常識を主張する誰かを目の前にして、自分の常識のなさを知る。

誰かの常識など、自分にとってはただの…わがままを通すための言い訳に過ぎない事に気が付き、呆然ととした。

誰かは、常識を共有する気など、毛頭なく…ただ自由気ままに、身勝手で自己中心的な欲求を通す事しか考えていない。

自分ではない、誰かの個に、誰かの常識に、私はただ…取り込まれていただけなのだ。

私と誰か、二人で構成された集団は、新たな常識を生み出し共に存在してゆくために…形成されたのではなかった。
私と誰か、二人で構成された集団は、誰かが自身を含む構成員二名の集団を支配するために…形成されたのだ。

つまらない常識にとらわれる自分に、気が付いた。
つまらない常識にとらわれる自分に、反吐が出る。
つまらない常識にとらわれる自分に、何の未練もない。

一般常識など、どうせ曖昧で不確かで、適当にそこら辺の一般人をまとめ上げるためにでっち上げられた、眇眇たる…知識のふりをした便利すぎる一文なのだ。

…つまらないものなど、捨ててしまえばいい。

決めてしまえば、実に簡単に、スムーズに…常識を投げ捨てることができた。

…捨てた後は、少しだけ後処理が必要だけれど。

……大丈夫、私は捨てる事を厭わないタイプだと、気が付いたから。

昼間のあまり人のいない時間帯を狙って、ファミレスの一角に席を陣取り…誰かと向き合う。

テーブルの上には冷めたコーヒーと、氷の解けたアイスコーヒー。

常識に毒された誰かが…ぶつぶつ言っている。

「そんなの…常識でしょう。」
「常識もわからないようだね、笑っちゃうな」
「そういうのをね、非常識っていうんだよ、わかる?」

私はもう、誰かと共に集団を形成する事はないから、誰かの常識など…受け入れる必要が、ないのだ。

常識常識と騒ぐ誰かを目の前にして…私は、信じられないくらい愉快になってしまった。

「ふふ‥はは、あはは…!!!」

常識にとらわれることを手放した私は、自分の常識を振り翳し自らの正当性を訴えかける誰かの様子が、おかしくておかしくてたまらない。

「面白い事があったら笑う、それって一般常識だと思うんだけど、どうかな?…ふ、ふふ、あはは!!!」

…いつの間にか、夕方の混みあう時間になっていたみたいだ。

誰かの常識を延々聞かされてたら、ずいぶん席が埋まってしまったらしい。

おなかを抱えて笑い転げる私を、世間一般の皆さんはどう思ったのかは、わからない。

遠巻きにこちらを見つめている人がずいぶんいるから…自称常識人の目の前の誰かは、かなり焦って落ち着きを無くしている。

常識のない私は、周りの目を気にすることなく…気のすむまで、笑い続けた。

常識のある誰かは、周りの目を気にして…いつまでたっても、下を向いて、いた。



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たかさば
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