視線
……思いがけず、住む場所を追われることになった。
住んでいる木造アパートの上の階のやつが水道を出しっぱなしにしたとかで部屋中大洪水になり、突如として住む機能が失われてしまったのである。
夜勤を終えて帰ってきたらドアを開けたとたんに水が出てきて…疲れているのに部屋の中が水浸しでテンパるわ管理会社に電話は繋がらないわで、ひどい目にあった。
ベッドと布団、畳が特に被害が大きく、とても復旧できそうにないので、まるっと交換してもらうことになったのはいいものの、業者の都合で即日対応ができず…一週間ほど家を開けるはめになってしまった。
お詫び金と一週間分のホテル宿泊費を受け取ることになった俺は、久しぶりに実家に帰ることにした。職場近くのホテルを利用してもいいが、ただ寝泊りするだけで一日6000円も使うくらいなら…片道一時間の拘束と電車代850円で済ませたほうがいいと踏んだのだ。
……しかし、実家と言っても、俺には両親が住んでいる一戸建てで暮らした経験がなかったりする。
18まで親父が勤めていた会社の社宅に住んでいたのだが、2LDKの狭い集合住宅がいやで…早々に一人暮らしを決めて実家を出た。
俺にとって実家とはあの狭苦しい社宅のことであり、今両親が住んでいる家はただの親が住んでいる家でしかない。
親父が中古住宅を見つけてきた時に一緒に住むかと聞かれたのだが、自由気ままな一人暮らしに慣れてしまったこともあり気乗りがせず、正月に一度顔を見せに行く程度で訪問するのが例年の習わしとなって落ち着いていた。
一度も泊まったことがない実家ではあるが…まあ、15年ほど前までは家族として一緒に暮らしていたわけだし、何とかなるだろう。
「しんちゃん、おかえり。フフ、一度も住んだことがないのにおかえりって!!あのね、布団干したのよ、まだけいちゃんがいた時に使ってたの、捨てないどいてよかったー!」
母さんはやけに上機嫌だ。弟が所帯を持って家を出てからは親父と二人暮らしだったから、さびしかったのかもしれない。…そうだな、今後はなるべく…年に一度だけじゃなく、もっと顔を出すようにしたほうが良さそうだ。
「…おう、信一。お前夜勤はいいのか?電車通勤と言ってもこのあたりは終電も早いし始発も遅いぞ?」
「事情を話して一週間昼勤にしてもらったんだ。今日は臨時有給で、明日からは10:00-21:00出勤になるよ。昼飯の準備はいいからね。晩飯は欲しいかな?買って帰っても良いけど」
「ええ?!そうなの?お弁当作るつもりだったのに…晩御飯は任せてね、お父さんの食が細くなっちゃって、作りがいがなくてつまらなかったの!」
いつもはリビングしか入らない、自分の知らない…実家。だが、ここには確かに…自分の実家なのだというあたたかさが、ある。両親と気さくな会話を楽しむのが…少しくすぐったいような気もする。
…家族がいるってのは、……良いものだな。
3LDKの、少し日当たりは悪いが広々とした家。
もともと自分はあまり好奇心がないタイプの人間ということもあって、ほとんど家の中を探るというか…見て回ったことがなかった。せっかくなので、一週間世話になる家を調査してみる事にした。
三台車が停められるカーポートに軽自動車が二台(俺と母さんの)、高齢者が乗るとは思えない自転車が二台(弟の遺産)、やけに広い庭にはオヤジのDIYの作業台?が並べてあってごちゃごちゃしている…、せっかくのウッドデッキには工具や木材が無造作に置かれており足の踏み場がない。意外と風呂がでかくて驚いた。乾燥機があるのは便利そうだ。わりと階段が急で上りにくいが…手すりがあるからいいか。二階の南側の部屋は日当たりが良くてベランダも広いから、毎日でも布団が干せそうだ。近所には小さな公園があって、どこかで子供達の笑い声が聞こえる。左隣は美容院、右隣は裏のマンションの駐車場…俺のアパートのように車の通行する音は聞こえてこず、のどかで平和な住宅地と言った感じだ。
随分のびのびとした家だ。ここで育つことができたならば、質素倹約・モノを貯めないよう心がけるけち臭い男なんかじゃなく、懐の大きなモテモテマンになれていたに違いない…。実際ここに5年住んだ弟は豪快で活発でアウトドア大好きで…モテてモテて仕方がなくて、あっという間にデキ婚をしたのだ。……ここで1週間暮らしたら、少しくらいはモテるようになれるだろうか。
決してご利益を狙ったわけではないが、俺は弟が使っていた部屋で寝ることになった。1階の客間は近々バザーに出す母さんのハンドメイド作品でいっぱい、2階の16畳の部屋は父さんの筋トレ用品が並んでいて片付けるのが面倒という事で、選択の余地がなかったのだ。
「……何、この部屋。恵介、政治家にでもなるつもりだったの?」
二階の北側にある弟の部屋のドアを開けると、そこには信じられないような光景が広がっていた。
10畳のフローリングの部屋の壁一面に、びっしりと政治家のポスターが貼ってあったのである。
…正直、圧迫感がすごい。一瞬、部屋に入るのを躊躇してしまった。わざとらしい笑顔の、真っ直ぐにこちらを見つめる視線が…怖いというか、なんというか。支持政党でも有るのかと思いきや、同じ人物や全く真反対の理念を掲げる政治家が仲良く並んでいたりして…違和感が拭えない。
「ううん、けいちゃんが出てってからね、えっと…お友達にもらったものを貼るようになったの。ね、この人イケメンだとおもわない?あと100本くらい毛が生えてたらイケオジブームに乗っかれたよね!」
「……これ、はがしたらダメなの?ちょっとここで寝るのは勇気がいるって言うか」
入り口横のポスターに手を伸ばし、テープをはがそうとしたのだが。
「まあ、はがすのはいつでもいいでしょ、まずはお風呂に入ってご飯食べない?もうそろそろ…あ、ほら、今ご飯炊けた音したよ!!用意しておくから、ちゃっちゃと入ってきなさい!」
そういえば…もう18:45か。
アパートはユニットバスなので、正直でかい風呂には憧れがある。俺は風呂に入って、久しぶりに母さんの作った飯を食うことにした。
風呂から出て、久しぶりに甘い煮物で炊き立ての飯を食い、デザートのみかんまで出してもらって…部屋に戻ってきた俺は、壁にあるポスターをはがすことにした。
いくらポスターとはいえ、人に見られながら寝るのは気持ちが悪すぎるんだよな…。
胡散臭い作り笑顔を向ける政治家たちが実に忌々しいというか…部屋のど真ん中に敷いてある布団に、四方八方から視線が集まってくるのが、我慢ならない。
壁にはりつけられているセロハンテープを爪でめくると…思いのほか劣化していて、簡単にはがすことができた。壁にはりついているのが信じられないくらいもろいものもあって、いかに長い間このポスターは貼られっぱなしだったのかと思う。弟が結婚したのが…8年前だから、おそらくその頃から貼りっぱなしになっているのだろう。
勝手にはがした、処分したと怒られる可能性もあるので、極力丁寧にはがし…部屋の隅に重ねて置く。枚数が多いので、思いのほか時間がかかってしまって…気がつけば、もう日付が変わる頃だ。…よし、全部はがし終わったし、寝るかな。
俺は電気を消し、干したての布団にもぐりこんで目を閉じた。
嗅いだことのない、ほのかな良い匂いの布団…これはイイ夢が見られそうだ……。
……。
…………。
慣れない家で寝るのは、意外と…難しいな。
今日はいろんなことがあって疲れているから、すぐに眠れると思ったのだが。なんとなく、気が立っているというか、普段通りの環境じゃないことがしっくり来ないというか、落ち着かない。
先ほどまで部屋中に貼られていたポスターの…視線が残っているというか。
何もない殺風景なフローリングの部屋なのに、なんだ、この…。
・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
ダメだ、どうしても…気になる。
俺は電気をつけて、スマホの動画を見ながら夜を明かすことになってしまった。
「しんちゃん、おはよう!!よく眠れた?」
朝5:30に、水でも飲もうと思ってキッチンに向かうと…はつらつとした母さんの姿が。
……朝から元気だな。
「いや…慣れない部屋だから、眠れなくてさ。ごめん、ちょっとリビングのソファで横になってもいい?」
俺は、返事も聞かずに、ソファにもたれかかり……。
「え?!ご飯作ったのに食べないの?なーに、朝っぱらからソファなんかで寝て…部屋でちゃんと…」
「…眠れたのか?……信一は平気……」
ピ、ピピピっ!!ピピ、ピピピピピピ……!!!
…。
……。
………?!
ゲッ!!!
マズい…今、何時だ?!
……8:30!!!
しまった、余裕を持って出て行こうとタイマーを仕掛けたのに!!!
完全に……寝過ごした!!!
「ごめん!!行ってきます!!!」
「え?!いきなり?!ちょっと髪の毛が……!!!」
「なんだ、忙しないなあ」
俺は、歯も磨かずに、飲まず食わずで会社に行くことになり!!!
「あ、しんちゃん、おかえりー!会社間に合った?」
「ただいま……、まあ、なんとか、ね」
どうにか間に合ったものの、派手に寝癖を付けて出勤する事になってしまって…くそ、せっかく最近いい感じだった経理の三田さんに…笑われる羽目に!しかも朝礼で派手に腹が鳴って、二回も三田さんに!!
これも昨日の夜なかなか眠れなかったせいだ。今日は早めに布団に入ってすぐに寝て、朝6時に起きて飯をきちんと食うぞ……!!
「ご飯温め直しとくから、お風呂入ってきたら?」
「うん……」
足を延ばして湯に浸かり…、きちんと髪も乾かしてリビングに行くと、うまそうではあるが確実に甘いであろう母さんの飯がホカホカと湯気を立てて並んでいた。
「父さんは晩酌でもするかな。信一も飲むかい?」
「いや…俺はいいよ、明日も仕事あるし。」
「偉いわねえ、けいちゃんは仕事なんかまったく気にしないで毎日二本は飲んでたのに!!やっぱり一人暮らしをすると違うわねえ、人に頼らないというか、大人というか」
この年になって親に褒められると…なんだ、むずむずするな。なんと返したらいいモノか悩んだので、黙ってみそ汁に手を伸ばす。…サツマイモの味噌汁か、相変わらず母さんのメニューは…うん、まあいいや。
「ねえ、ところで…ポスター、はがしちゃったのね!!なんでわざわざ夜中に?!もしかして、そのせいで眠る時間がなかったの?も~、言ってくれれば、母さんが…昼間にはがしてあげたのに!!」
「いや、はがすのはそんなに時間はかからなかったよ。なんかさ、はがした後、目がさえちゃって眠れなくてさ。おかげで朝まで動画見ちゃって…、リビングで寝落ちしたんだよ」
デザートのように甘い母さんの卵焼きをつまみながら、言い訳がましく自分の失態を語る。いい年をして寝過ごすなんて恥ずかしい。
「…信一はなんだ、あの部屋は…落ち着かんか」
「まあね、初めて泊まる部屋だし、こういうもんじゃないの?・・・ごちそうさま」
「あ、今日はイチゴが有るのよ、今出すね!」
正直口の中が甘さでいっぱい、腹の中も甘い成分でぎっしりでもう何も入らないので、イチゴの入った器をもらって二階へ上がることにした。
電気をつけると・・・茶色いフローリングのど真ん中に布団、季節物の服が少ししまわれているクローゼットの前にポスターの束、白い壁に、閉まった藍色のカーテンが・・・・・・。
・・・・・・。
なんだろう、なんか・・・なんかやっぱり、視線を感じる。
重ねられているポスターのおっさんは、床から天井を見上げているのに・・・視線がこちらを向いているというか。見られているような…空気?オーラ?おかしなパワーがこの部屋の中には・・・充満している。
いくら写真…ポスターとはいえ、長年たくさんの目がこの部屋の中にあったわけで、その残り香のようなものが染み付いている?ざわざわとしたおかしな感覚が、耳の後ろ、背中、ほっぺた、あらゆるところに突き刺さる・・・いや、押し寄せる・・・違うな、じんわりと漂って、その気配だけがほのかに肌で感じられるような・・・。
・・・ダメだ、どうしても落ち着かない。
俺はふかふかの布団には触れずに、一階のリビングのソファに向かった。
「なんだ、信一はこんなところで寝ておるのか。そんな姿勢で寝ておっては肩が凝るぞ」
朝6:00、ソファで熟睡していた俺は、親父のあきれた声で目を覚ました。
…今からウォーキングに行くらしい。もう70になるというのに元気で何よりだな…。
「おはよう。俺はまだ若いしね、大丈夫だよ。会社のジムも週一で使ってるし、鍛えているからさ」
とはいえ、夜勤明けに通っていたから今週は休むことになりそうだけども。いつも三田さんと一緒にトレッドミルをやるのが楽しみだったのに、残念でならない。…縁が遠のいたら二階の住人に損害賠償でも請求してやりたいくらいだ。
「40を越えるとちょっとした肩こりが致命傷になるのよ?若いと思っててもね、ホントあっという間に老いはやってくるの、過信はだめよ!あたしなんかね・・・」
「…四捨五入だったらまだ30だからね…来月以降、気をつけるよ」
母さんの話は明るくてかわいらしいところもあるのだが…長くなるのが玉に瑕なんだ。俺は顔を洗うために洗面所へと向かった。
「ねえ、しんちゃん……、部屋、やっぱり…気になる?」
普段見ない朝のテレビ番組を見ながら、甘すぎるシュガートーストを齧りつつブラックコーヒーを飲んでいると、気になる声が聞こえてきた。不審の目を向けると…やけにしおらしくはちみつを塗っている母さんの姿が…いつもの天真爛漫な笑顔がない、これは一体どうした事だ。
「……やっぱり?ちょっと待って、なんかあるの、あの部屋」
「何もないんだけど…なんか、視線を感じるのよね。けいちゃんがいた時は気にならなかったの。あの子部屋中にベタベタ漫画のポスター貼ってたからすごく気が散っちゃっててねぇ、視線よりもエッチな絵に恥ずかしくなっちゃったというか!」
聞けばあの部屋は、弟が出て行ったあと母さんの趣味部屋にする予定だったらしい。ところが、壁紙を貼り直していざ趣味に没頭をと思い部屋に入った瞬間、言いようのない視線の気持ち悪さに気がついてしまい、以降はなるべく入らないようにしてきたのだとか…。
週に一度は空気の入れ替えをするために部屋に入らなければいけないので、気持ちの悪さを軽減するべくポスターを貼ることにしたのだそうだ。目玉のない壁から視線を感じるから気持ちが悪いのであって、壁に貼られたポスターの視線だと思えば我慢ができるんじゃないかって事らしい。
で、選挙のたびにいろんな人に声をかけて、まっすぐな視線を向けてくる立候補者のポスターをもらってきてはペタペタ貼り付け、あの政党ごちゃまぜの部屋が完成したと。
……なんだかなあ、根本を解決するのではなく、気持ちをごまかしてヨシとするところが何とも母さんらしい。
「そんな部屋を俺に使わせたの?!ひどいよ!!」
「だってけいちゃんは平気だったし!!お父さんも気にならないっていうから!!あたしの気のせいだと思ってたけど、やっぱりあの部屋、何かあるのよ!!だいたいね、ここすごく良い立地だし築年数もそんなに古くないのにすごく安かったの、お父さんは何もないって言い張ってたけど、絶対何かあるのよ!!契約に行った時もね、不動産屋さんが信じられないくらい洗剤をたくさんくれて…」
……結局剥がしたポスターはまた貼り直すことになり…5日間ソファで寝たんだよなあ。
今だったら、絶対に首のひとつや二つ寝違えていたこと間違いなしだ。
「パパー!!ご飯できたよー!!」
「あーん!!おばあちゃん、あたしはちみついらないのにー!!!」
「ママ―、このカレーおじいちゃんの?それともパパの?!」
「ええとね、こっちがじいじの、今ばあばがはちみつかけたのはパパにあげて!」
「しんちゃーん、お父さん呼んできてー!!!」
「はいはい」
弟の部屋のご利益があったのかどうかはわからないけど…、あの後わりとすぐに嫁と付き合うことになって、意気投合して、さくっと結婚したんだよな……。
長女が生まれて、てんてこ舞いしてたら双子の妊娠がわかって…、とても夫婦二人じゃ回らないという事で、急遽この家で同居が決まって。庭を片付けて、平屋の家を建てる事になって。親父が足腰が弱ってきたから急な階段がきつくなったとか言い出して、俺たちがこの家に住むことになったのだ。
幸い嫁と俺の両親との仲は良好で、お互いフォローをしながら毎日過ごすことができている。夫婦そろって同じ会社で働き続けることができているのは、子ども達を見てくれている両親がいるからに他ならない。ありがたい事だよ、まったく。
あの視線が気になって仕方がなかった部屋は…いま、娘たちが使っている。
かしましい三人娘が四六時中ぎゃあぎゃあしている上に犬もいて、しかも公園の向こう側にある幼稚園の友達が毎日たくさん来るので…視線の持ち主もどいつに注目して良いのかわからずあせっている?参っている?呆れている?うるさくてかなわんと逃げ出した?とにかく、気がついたら気にならなくなっていたのだ。
少なくてもあと15年くらいは、この家の騒がしさは続く事だろう。
だが…娘たちは、やがて大きくなり、この家を出る。
その時、きっと、俺は、一人さびしく…がらんとしてしまった2階のあの部屋を見るのだ。
おかしな視線に……怯えることがあるかもしれない。
だから、俺は…あのポスターの山を、捨てることができずに……。
ポスター、出す日が……いつか、来る………。
娘たちが、この、家を……。
俺を残して、愛する娘たちが……。
「おお、信一、もうご飯の時間かい・・・って、お前、何泣いているんだ」
「…いや、母さんの……はちみつカレーのにおいが、甘すぎて…涙が出ただけだよ……」
……俺はちょちょぎれた涙を、ぐっと拭い。
元気良く、いつもの……挨拶を!!
「はーい、みんなで『いただきます』するよー!!!せーの!!!」
「「「「「「いただきまーす!!!」」」」」」
我が家の伝統の、甘すぎるカレーを口に運んだのだが。
「なんかちょっと…しょっぱいや……」
「は~い!練乳もあるよ!パパはホント甘党なんだから!」
優しすぎる妻の気遣いに感謝しつつ、腹いっぱいになるまで……俺は甘ったるいカレーを食べるのであった。