
くせ【ショートショート】
「今日は、とても仕事が忙しくてね。帰るのが遅くなって、しまった。」
旦那はそういいながら、私に話しかけた。
旦那の右手の親指が、人差し指の第二関節を撫でている。
「そっか。お疲れ様。お風呂、入ってきたら?」
にっこり笑って、私は右耳を、なぞる。
「うん、ご飯用意しといてね。」
瞬きを、二回。
「…もう、夜遅いから、少なめにしておいたら。」
「そうだね、おつまみ程度で良いよ。」
頭を、二回、かく。
お風呂に向かう旦那の後姿を見送り、私はキッチンに、立つ。
君は、気遣うとき、いつも右耳を触るね、とは、かつての恋人が言った言葉。
かつての恋人は、旦那になった。
旦那の癖は、分かってる。
やましいことがあるときは。
右手の親指で、人差し指の第二関節の、背を撫でる。
いやだなあと思うときは。
瞬きが二回になる。
よかったと安堵するときは。
頭を二回、かく。
長年一緒にいると、癖って本当に、よく分かる。
毎朝起こしてあげると、頭を二回かきながら、ベッドから降りて。
今日は帰り遅いのと聞けば、人差し指を、撫でる。
私今日残業して良い?と聞けば、頭を二回かいて。
ご飯用意しておく?と聞けば、瞬きを、二回。
私は、素知らぬ顔で、右耳をなぞる。
自分の癖を知ったうえで、右耳を、なぞる。
ただ、私の癖は、もうすでに、癖ではなく。
演技になってしまっていることに、旦那は気付いていない。
演技を続ける私は、旦那のために、肉じゃがを、小鉢に控えめに盛り、テーブルで一人、待つ。
猫舌だという旦那は、熱々の食べ物を、嫌うから。
熱々の、湯気が立ち上る肉じゃがから、急速に熱が、冷めてゆく。
それを見つめる私の心も、同じように、褪めてゆく。
風呂上りの旦那が、テーブルに着き、肉じゃがを、食べる。
「ああ、やっぱりお前の肉じゃがが、一番、うまいな。」
鼻の下を、人差し指で、一回、こすった。
おいしいと思ったときの、癖。
ああ、食べてきた夕食は、あまりお気に召さない感じだったのね。
そりゃね。
20年もあなたの喜ぶ食事、作ってきたから。
あなた好みの味は、私しか、出せないでしょうね。
でもね。
あなたは好みの味を、今、求めてはいないって、私、知ってるの。
あなたの求めるものは、おいしい好みのご飯ではなくて。
楽しい時間を与えてくれる、魅力的な、誰か。
私は両手をあごの下で組んで、あごを乗せて、旦那ににっこり、笑った。
ああ、私、とっても幸せ、の演技。
「ご馳走様。明日は早いから、もう寝るよ。」
人差し指を撫でながら、席を、立つ。
「分かった。私はもう少し、やることやってから寝るから。先に、寝てて。お休み。」
旦那は私を見て、頭を二回かくと、歯も磨かずに、寝室へと、消えた。
手にはスマホを、しっかり持って。
私は後片付けをしながら、思案に暮れる。
ゆっくり、首を、左右に、振りながら。
ああ、だめだな。
私の癖が、出ちゃってる。
悪巧みをするときの、私の癖。
洗い物をする手を止めることなく、後ろを振り返る。
…大丈夫。
見られていない。
続けるべきか。
断ち切るべきか。
答を出す、時期に来ているのかも知れない。
洗い物を終えて、一人、テーブルで、お茶を飲む。
「ふふ。」
少し、自分がおかしくなって、笑いが、もれた。
自分の感情が、思いのほか素直に出たので、思わず、もれた。
これは、演技ではない、素直な、私の気持ち。
癖すら出ない、素の、私。
今日は、ソファで寝ようかな。
もうずいぶん、暖かくなったから。
ベッドで眠らなくても、大丈夫。
誰かに熱を分けてもらわなくても。
私一人でも。
暖かく眠ることができるもの。
私は、右耳を一切触ることなく、テーブルの上で手を組んで。
あごを乗せて、ふふっと、笑った。
お花畑の人は自分に都合のいい解釈しかしない定期。
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