泣いてる女性はつよい

泣き虫なまま、生きてゆきたい

わたしは泣き虫です。

映画『君の名は。』は最初に映る空の画がキレイすぎて上映開始1分で泣いたし、
誰かの人生を紡いだnoteなんて泣きすぎて読めなくなっちゃうし、
芸人の出川哲郎さんが一生懸命泳いでいるというだけで泣けてしまいます。

子どもの頃は、この涙もろさが大嫌いでした。

「お前が泣くから全部俺のせいになる」

小学生の時にクラスメイトから言われた言葉が、今でも忘れられません。

だって、彼の言う通りなのです。

「ちょっと、女の子泣かせるんじゃないの!」
「泣いてるんだから、可哀想だろう。謝りなさい」
「泣くまで追い詰めるなんて」

両成敗の喧嘩なのに、ただわたしが感情を抑えられなくなっただけなのに、そんな言葉が彼のことを「悪者」にしてしまいました。

その言葉を使った人は、きっと悪意は持っていませんでした。むしろ、わたしを守ろうとしてくれていた。心配してくれていた。

心配するあまり、言葉がすこし鋭くなってしまっただけだった。

だから、申し訳なくてたまりませんでした。
鋭い刃を投げてしまう人も、刺さる人も、悪くなかったから。

なんでわたしは、ただ感情が昂るだけで、大切なことを言葉にしようとするだけで、ぼろぼろと涙を零してしまうんだろう。

なんで、わたしは、自分の涙腺ひとつコントロールできないんだろう。

なんで。
いっそ、涙なんて出てこなければいいのに。
感情なんて、なくしてしまえればいいのに。

そんなことを繰り返し思っていたら、自分が何に喜び、何に悲しみ、何に怒るのかを忘れてしまいました。

泣かなくなったのは、強さの証ではなかった

泣かなくなるのって、実は簡単だと思うんです。

言葉を大切になんてしなければいい。
感情なんて捨ててしまえばいい。

すべてを諦めて、ただ息を吸って吐くだけの日々を送ればいい。

そうすれば、すぐに涙なんて出なくなります。
悔しいとも、悲しいとも、つらいとも思わない。だから、涙なんて出てこようがない。

泣かなくなった時、「これで強くなれた」と思いました。
「誰にも迷惑をかけなくて済む」と思いました。

でも、違った。

泣かなくなったのは、わたしが強くなったからではなかった。
強く在ろうとした心を捨てたから、泣かなくなっただけだったんです。

強さを得たから泣かないのではなく強さを捨てたから泣かないのだと気付いた時、急に虚しくなって、自分が何のために何をしようとしていたのか分からなくなりました。

泣きたい。

今積もっているこの大量のモヤモヤを放ちたい。
もう自分で自分を抑圧したくない。
自分が何に喜び何に悲しむのかを知りたい。

自分で自分を、諦めたくない。

好きだったアニメや何度も読み返した本、大切な言葉、思い出にふれて、少しずつ自分の感情を取り戻していきました。

無くしものを探す時のように、ゆっくりと、細かな場所まで目を配りながら。

あんなに泣くのを嫌がっていたのに、また涙を流せた時、とても安心できたのを覚えています。
ああ良かった、感情が戻ってきてくれた。

泣けるって、幸せだ

そんなわけで今でも安定して泣き虫なわたしですが、以前と変わったことがひとつだけあります。

「泣く」という行為を、とてもポジティブなものとして捉えられるようになりました。

涙が出てくるほど感情を動かせること。
実体験でなく人の話を聞いて涙を流せること。
溜め込んだものをきちんと吐き出せること。

もちろん、泣くわけにはいかないような場面もあります。
大通りで声をあげてギャンギャンと泣きわめくことはできません。プレゼン中に言葉に詰まって目を湿らすわけにはいきません。
そういう時は、そっと堪えることもあります。

でもそれは「抑える」わけじゃない。
裏通りに入ったら、プレゼンを終えたら、そっとハンカチで拭います。そういう「流していい時間」を作ることも大切だと思っているから。

泣きたくても泣けない人がいることを知りました。
涙を流す前にぐっと大きな一歩を踏み出す人がいることを知りました。

そしてわたしは、そういう人たちのために、「泣き虫なたかれんさん」でいたいと思ったのです。

泣き虫なまま、生きてゆきたいのです。

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たかれん
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