もう会えない、だから会いに行く
静岡は三島市、紅葉と池が太陽の光を受けて煌めいている庭園を抜けると、ちいさな美術館がある。
新江ノ島水族館のガチャガチャで見かけ、ついさっき眺めた生き物と瓜二つにも見えるリアルな造形と、木材特有の角ばったフォルムの塩梅が心地よいと思っていた。いつか、ちいさくても、実際に手掛けられた彫刻作品を手元に置きたい。
そんなふうに考えていたはしもとみおさんの作品展が、地元から2時間程度の美術館でやるという。
それはもう、行くしかないでしょう。
"いた"し、"いる"
はしもとみおさんが手がける作品の多くは、はしもとさんの家族や、近くの動物園で暮らしている動物たち。好きなたべものや性格がわかるくらいに何度も通い、幾度もスケッチをして、その時間のなかではしもとさんが感じ取ったぬくもりが、彫刻として顕現される。
佐野美術館に入ってすぐに出迎えてくれたのは、三重県は大内山動物園在住のツキノワグマ・シュウくん。
レーズンパンが好きで、大きなタイヤが大好きなシュウくん。はしもとさんはシュウくんに一目ぼれして、何度も通い詰めてはスケッチを描き、やがて彫刻に落とし込んでいったと言う。
ツキノワグマにしては大きめの耳と、ニッコリ笑ったような口元。どこかやさしさを感じる瞳。
デフォルメされたようにも思えるかわいらしい外見は、なるほど納得。ホンモノそっくりである。
はしもとさんの彫刻作品は、どれも個体の名前がついている。「ツキノワグマ」ではなく「シュウ」君だし、「黒柴」ではなく、「月」君なのである。
たいていの動物は、ヒトより先にいなくなってしまう。動物園でずっと見ていたライオンは天寿を全うしたし、小学校で飼っていたうさぎももういない。テレビで何度も見たアイドル犬も、今は老犬と呼べる年齢だ。
けれど展示会で飾られていた彼らは、皆息遣いをしているようで、木材なのにあたたかくて、その瞳の先には彼らの飼い主やパートナーがいるようで。彼らの命の何パーセントかはこの彫刻に込められたのだと、たしかに血が流れ込んだと、思わずにはいられなかった。
はしもとさんが彫刻に命を吹き込むことで、もういなくなった彼らが、また会える存在に、また触れられる存在になるようだった。
触れたら、ほっと緊張が解れてしまうような
今回の展示では、いくつかの作品は触れることができた。犬なら顎や頬を撫で、羊なら背中のもこもことした毛に手を這わせ、亀なら甲羅の割れ目に指を添わす。
面白いもので、観覧に来た方の多くがそうするのか、犬なら頬が、猫なら額が、亀なら甲羅のテッペンが、うっすらとインクが取れ、木材の茶色が覗いていた。
触れるとたしかに木材の、少しひんやりとした硬い感触がするのだけれど、家族や友人に撫でられて目を細める動物の顔が目に浮かぶ。ごろごろごろ。きっと喉を鳴らしながら、愛情しか込められていない時間を過ごしていたんだろう。
はしもとさんの彫刻以外の作品、スケッチやデッサンは初めて見たのだが、それはお見事。彫刻と同じように、その子の性格や体温を感じる。
きっとこの子はちょっと人見知り。きっとこの子はヒトが大好きで、初めましての人にもコンニチハ!って尻尾を振ったんだろうな。きっとこの子はあたたかな場所で丸まるのが好きだったんだろうな。
はしもとさんの原体験である「たとえ失われた命であってもその輝きを彫刻という形で残したい」という感情が、線一本から、色一色から伝わってくる。
やわらかな作風や字体からは少しイメージの違う、ストイックな面も垣間見れた。
西洋彫刻のデッサンや、学生時代に手掛けた作品も見ることができたが、やはりどれにも温度があって、触れたらほっと緊張が解れそうな気配があった。
展示された動物たちが皆正面を向いているのではなく、思い思いのほうを向いているのも良かった。
わたしたちはいつだって、動物たちにこっちを向いてほしいんじゃなくて、綺麗な鳥を目で追ったり、眩しい太陽を仰いで目を細めたり、思い思いの時間を過ごしてほしいのだから。
もう会えない子、距離やいろいろな都合で会うのが難しい子が、すぐそばまで来てくれる。これからもっとずっと多くの命が、はしもとさんの手を通って、時間のしがらみから放たれた身体をまとう。
もういない。でもまた会える。その希望が、明日をすこし照らしてくれる。