わたしがRizを通して守りたいもの、つくりたい社会について
こんにちは、はじめまして、お久しぶりです。たかれんです。
前回、幼少期から今までの話をnoteにして、いろんな方から「良かったよ~」と声をかけていただきました。ありがとうございます。
そしてその中で、こんなことを書きました。
後編では、これからRizで何を達成したいか、どんな姿勢で子どもたちと接しているのか、そんな「今と、未来」について話したいなと考えています。
書き始めてからずいぶんと時間がかかったけれど、ようやく書き上げることができました。
だから今日は、わたしの「今と、未来」についての話を聞いてください。
忙しい方のための1分で読めるあらすじ:
現在フリースクールを運営しているのは、とにかくすべての人の味方になりたかったから。「すべては、子どものために」の言葉を抱きしめながら、今日も明日もこれからも、とにかく目の前の人に向き合いたいと思っている。
▽「たかれんって誰だ」って方はコチラ
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「目の前の子ども」の役に立ちたくて、何度も何度も手を伸ばしてきた
Rizを設立したのは2018年6月なのですが、そもそもわたしがフリースクールを作ろうと決めたのは、2017年9月のこと。
それまではずっと、学校の先生になるための勉強をしていました。
でも、結局教師ではなくフリースクール設立を選んだのは、「今すぐ、目の前で苦しんでいる子どもに手を伸ばしたかったから」です。
世の中で味方になってくれる人なんて一人もいやしないと絶望している。
自分がとても醜いものに思えてしまう。
自分の腕から流れ出る鮮血を見てやっと、「ああ、生きているんだ」と実感する。
そんなひとりぼっちで泣いている、もはや泣くことさえ禁じられた子どもたちを放っておくことなんてできませんでした。
だからこそ、Rizでは「一人ひとりの子どもと目を合わせ、話をすること」をとても大切にしています。どれだけ忙しくても、必ず出迎えと見送りに行き、「最近どう?」と話しをするのです。
最初に目を合わせて挨拶した時の、警戒心の隙間から見える年相応の表情。
「わたしもね、中学生の時に学校嫌いだったの」
「約束のネバーランドね!知ってる、アニメも漫画も全部観たよ」
「やる気の出ない時もあるもんね、お母さんに秘密で、今日は映画観ちゃおうか」
まるで中学生同士でするような会話ですが、そんな会話を毎日楽しんでいます。
目の前の子どもに手を伸ばせているという実感。
掴んだ手の温度まで感じ取れている感触。
本心から信頼してくれていると感じられる笑顔。
その一つひとつが大切な宝物です。生きる活力になります。
一生大切にしたいと、心の底から思っています。
フリースクール設立はとても難しく、維持も難しい。営利目的だというと批判されやすい一方で、それなりのコストはやはりかかります。マンパワーやそれぞれのやりがいに頼ってしまう部分は大きい。
そんな世界に21歳から足を踏み入れるなんて、なんともハードモードな人生ですが……、「この道を選んでよかった」と心から言えます。
何度人生やり直したって、きっとこの道を選ぶのでしょう。
何度だって手を伸ばすのでしょう。
わたしたちの手の届くところにいてくれると、知ってしまったのだから。
子どもの、親の、学校の、世間の、味方になると決めた
こういう仕事をしていると、嬉しいことやすてきなことがたくさんありますが、悲しいこともあります。
「学校なんていらない」
「子どもが不登校になるのは親のせい」
「世間の無理解のせいで不登校支援が進まない」
そういう強い言葉を聞くと、胸がぎゅっとなってしまうのです。
いろんな考えがあります。わたしは「学校に戻っても戻らなくてもどっちでもいい」と思っているけれど、「学校に戻ったほうがいい」という人もいるし、「学校には行かないほうがいい」という人もいます。
共通した考えを持っていても行動が異なることはあるし、似た考えのようで実はまったく別物なんてのも珍しくありません。そもそも別方向を向いているから比べようがない、なんてケースも。
それぞれ、何が間違い何が正解ということはないと思っています。
正誤であれこれ判断されて価値観が統一される社会よりも、さまざまな価値観が混在する中で自分に合うものを選び取れる社会のほうが健全だと信じています。
でも。
学校でたくさん嫌な目に遭ったけれど、すてきな思い出もいっぱいあるんだよ。
家族が家族なりにわたしを愛そうとしてくれていたの、知ってるよ。
自分が子どもの頃にはなかったことが当たり前に存在しているのは、やっぱり怖いよ。
どんな考えを持つかはその人の自由だけれど、それでも「どうにかみんな共存できないかな」と考えてしまいます。
仲良くはできなくても、お互いの価値観を尊重することはできないかな、と考えずにはいられないのです。
フリースクールと学校は、「敵」同士として見られることがあります。
フリースクールが「学校に行けない・行かない子」を対象としている以上、仕方のないことなのかもしれません。
それどころか、フリースクール同士でさえ「競合」のような関係性になることがあります。ただでさえ数が足りていないのに。一体なにを奪い合っているのでしょうね。
子どもの居場所を守るためには、命を守るためには、わたしたちが争っている時間などないのです。お互いの役割を果たし、尊重し、支え合わないと、子どもたちの未来なんて守れないのです。
わたしたちは「競合」でもなければ「敵」でもなく、「仇」でもないのです。
子どもはいま、必死に堪えてひとりで立っています。
ご家族は、我が身のこと以上に悩み苦しんでいます。
学校はたくさんの子どもを守りながら、数え切れないほどの役割と責任を担っています。
世間は、自らの生きてきた時代からの変化に戸惑いながら、それでも自分なりに食らいついて生きています。
こんな世界で、いったい誰が悪いというのでしょうか。誰に責任があるというのでしょうか。
わたしたちの答えは「誰でもない」です。
誰も悪くない。誰の責任でもない。
みんな必死で、頑張ってる。頑張ってなくたって、頑張れなくたって、頑張らなくたって、とにかく誰かひとりが何かを背負う必要はない。
だからわたしたちは、何も否定しません。何も責めません。
子どもの絶対的味方であるのと同時に、親の、学校の、世間の味方でも在ります。
わたしは「子どもが自分らしくいられる場所」がつくりたい
わたしたちのつくりたい場所は、単なる「不登校の子どもが学校の代わりに日中通う場所」ではありません。
子どもが自分らしく生き、自らを許し、他者を許し、その子のありのままの表情で過ごせる場所。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、悔しがったり、愛したり、愛されたりしながら、ゆっくりとその子なりの過ごし方が選べる場所をつくりたいのです。
子どもは本当に敏感で、場の雰囲気、その場にいる大人の機嫌や感情を鋭く察知します。
「学校に行ってほしい」と思う人がいれば、「学校に行くよ」と言います。
たとえ、自分が学校で空気のように扱われていたとしても。
どんなに酷な目に遭っていたとしても。
だから子どもが自分らしくいるためには(あるいは自分らしさを見つけるためには)、まず周りの大人が「こうするべき」「こうなってほしい」「こんな子が良い」といった価値観を手放さなければなりません。
手放せないとしても、目の前の子どもに突きつけるようなことはしてはなりません。
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わたしたちの作ったフリースクール「Riz」の名前の由来は「Self-realization」。自己実現を意味します。
フリースクールを設立してから、何度か「子どもたちにはどんな大人になってほしいですか?」と訊かれたことがあります。
そしてその度にわたしは、答えに詰まってしまうのです。
だって、子どもになってほしい姿などないのだから。
その子がその子なりに幸せな状況で生きてさえくれていたら、もうそれでいいのだから。
だからわたしはいつも、こう答えるのです。
「その子が目指すものがあってもなくても、とにかく笑顔で過ごしてくれたら、そして安心して泣ける場所があればいいと思っています。欲を言えば、将来選びたい道を見つけた時、そこに一歩踏み出せる人になってくれていたら。でも、もし道が見つからない時や、踏み出すのが怖い時があったら、ゆっくり休める場所を見つけてほしいです」
そんな想いを持ちながら、わたしはフリースクールの校長先生として、日々子どもたちと向き合っています。
Rizという「理念」を広げたい
正直に言うと、わたしは今「Rizをもっとモリモリ広げて全国展開じゃ~!」とは思っていません。むしろ、今できている場所を丁寧に育てていきたい、守っていきたいと思っています。
しかし、「広げたい」という想いがないわけではありません。まだまだ居場所が見つけられず苦しんでいる子どもがたくさんいます。
まだ、立ち止まれない。ここはわたしたちの目指したゴールではない。
熊本県に住んでいる子から、「Rizがうちの近くにあったらいいのに」とLINEが来るんです。
歯がゆい気持ちになります。わたしはその子を迎えに行けないし、「ここに行けばいいんだよ」と迎えられるようなツテもない。
だからといって、Rizをすぐにそこまで展開させることは現実的ではありません。助けを求めている子全員が熊本にいるわけではありません。
同じような声が、福島から、沖縄から、青森から、日々届いているのです。
彼女たちに必要なのは「わたしの」手ではない。必要なのは、東京にいるわたしが無理やり伸ばした手ではなく、地元でいつでも見守ってくれる大人の手です。
だからわたしは、Rizという「理念」を広げたいと思っています。
「子どもが自分らしくいられる場所を作りたい」「子どもたちの選択を尊重したい」という気持ちそのものを広めたい。
そのために必要なことなら、「できるだけ」なんて言わない。すべてやる覚悟です。
すべては、子どものために
活動を説明する時や、講演をさせていただく時、Rizに関する記事を書く時、よくつかう言葉があります。
「すべては、子どものために」
正直、この言葉がすべてです。
何をするか、何をしないか、何を守り、何を捨て、何を変えてゆくのか。
いろいろな判断軸はありますが、根本にあるのは「子どものため」です。
極端な話、事業として有用なことであっても、子どもの不利益になることはしない、と決めています。
子どもたちが笑顔で過ごせること。
心の底から「行きたい」と思える場所であること。
それが、何よりも大切です。
だってわたしたちは、一人で苦しんでいる子どもをひとりぼっちのままにしないために動いているのだから。
今生きる子どもの幸せが、なにより大切なのだから。
すべては、子どものために。です。
弱虫なわたしの背中を押してくれる言葉たちとの出合い
Rizを設立してから、本当にたくさんの方に応援していただきました。
(こんなコメントいただいたりも。ありがたし……。)
特に設立前、CAMPFIREさんでクラウドファンディングに挑戦した時は、本当にたくさんの方が応援をしてくださいました。
そして現在も、一緒に活動してくれたり、活動を広めてくれたり、相談に乗ってくれたり、定期的にサイトを見てくれたり……、本当にたくさんの方が、様々な方法で、力を貸してくださっています。
「たかれんさんの行動、本当に尊敬します」
「Rizのこと、これからも応援しています」
「もし力になれることがあったら言ってください!」
そんな言葉をいただく度、背筋がしゃんと伸びる気がします。
わたしは元々すごく保守的な性格なので、何かを思いついても、行動したり発言したりするまでに時間がかかります。
だからきっと、わたしだけだったら、フリースクールを作ることも、大学を辞めることも、子どもたちの居場所づくりをすることも、できていなかった。
そんなわたしが現在活動できているのは、この弱虫なわたしの背中を押してくれる人がいて、言葉があったからです。
いつだってわたしは、周りの人に支えられてここまでやって来ました。
だからこそ、そんな大切な人たちが、わたしの大切な場所を共に愛してくれるのが嬉しいんです。
わたし個人の応援をしていただけることももちろんですが、「Riz」という場所そのものを愛していただけること。
わたしにとってなにより大切で、我が子のようであり、分身のようであり、我が身そのものでもある場所を一緒に大切にしてくれることが、何より嬉しい。
だからこそ、これからも愛し続けてもらえるように、応援してもらえるように。全身全霊でこの空間を守っていきたいと思っています。
今も昔もこれからも、やることはひとつだけ。目の前の人に向き合い続けること
ここまで、様々なチャレンジをしてきたようにも思えますが、よくよく考えるとわたしのやってることってたった一つだけなんですよね。
目の前の人に向き合い続けること。
相手が何を必要としているのか真摯に受け止め、最善策を考え続けること。
ただただ、真摯に、誠心誠意向き合う。
今のわたしにできることを、今いる人に向けておこなう。
ひたむきに、真っすぐに。
それをし続けた結果、今、たくさんの仲間に恵まれ、応援をしてもらい、子どもたちのため、保護者の方のため、学校のため、世間の皆さんのための活動ができています。
正直、足りない部分はいっぱいあって、やりたいこともいっぱいあります。
でも、これからもやることは変わりません。
目の前の人に向き合い続けること。
ただそれだけのことを、きっとわたしは一生続けていくのだと思います。
だって、今の幸せなくして未来の幸せはあり得ないから。
何かの犠牲の上に作り上げた幸福の脆さを、わたしたちは知っています。
何万人を一気にひっくり返すような革命はきっと起こせない。
でも、この行動の先にあなたの笑顔が待っているなら、それでいいと、十分すぎると、そう思っています。
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(わがままにお願いしたら、感想いただけましたw)
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