自分のダサいところを知っている相手との時間について
人は誰しも、ダサいところをもっている。
見栄っ張りだったり、テンパりやすかったり、臆病だったり。
大人になるに連れ、自分のダサさや弱いところを理解するから、うまくカバーできるようになっていく。得意な人に代わってもらったり、仕組みを作ったり。
知恵という鎧を身に着けて、ダサさを見せないようになる。
でもたまには、鎧を外す時間も必要だ。
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このnoteは、さのさんのnote「高校時代の友人と久しぶりに飲んだ結果www」の感想note。
「ダサいところを見せても何も変わらない」と思える人
さのさんは5月のGW中、高校時代の友人2人と久々に宅飲みをしたのだそう。
特別仲が良いわけではなかったものの、クラスや部活が重なった時期もあり、あまり知られたくないようなことも知られているとのこと。
「自分のことを昔から知っているので、繕ったところでどうせバレる。その上でダサいところを見せても何も変わらないから別に大丈夫」という安心感がありました。
さのさんのnoteより
この安心感、良い。
特に社会人になると、弱みを見せられる機会がめっきり減る。職場で弱いところを曝け出すことは難しい(むしろ許されない?)し、そんな話ができるまで仲良くなることも少ない。
「ダサいところを見せても何も変わらないから別に大丈夫」と言える人はすごく貴重で、大切なのだ。
「学生時代からの友達」が羨ましかった
一時期、「学生時代からの友達がいる人」がすごく羨ましかった。
小学5年の3学期に引っ越しをし、中2の2学期に転校したわたしには、「幼馴染」と呼べるような人がいない。
その後も、高校は横浜で、大学は東京だった。
SNSで繋がっている人が何人かいるものの、個別の連絡は取り合っていない。
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ではわたしに「ダサいところを見せても何も変わらない」と思える人がいないかというと、そんなことはない。
家族関係や子どもの頃についてなど、かなり深い部分まで相談させてもらった人もいれば、わたしのカッコワルイところを知り尽くしている人もいる。
なんだか恥ずかしいような照れ臭いような気もするが、やっぱりそういう人たちと会う時間のわたしは、考えられないくらいリラックスしている。
いつ出会ったか、どこで出会ったかなんて、関係ないのかもしれない。
そう思うと、学生時代の希薄な人間関係によるコンプレックスも、少し緩和される気がした。
何も意識せず話せる相手との時間を取れると良いよね
本音を話せる仲間を見つけよう、という話もある。でも、それは本質的ではないと思う。
「🔥本音を話せる仲間🔥」みたいなのとはちょっと違う気がします。(本音を話す、と言ってしまっている時点で「本音を話さないといけない」という圧力が生まれるので、それは本音ではない気もする)夢とかを話せる仲というよりも、ただ話すことに緊張感がない、というだけでした。
さのさんのnoteより
そう、緊張しない、だけでいい。
これを話そうとか、そういうことをあれこれ考えないでいい相手。意識せず、ただただ時間を共有できる人。
話した内容はほとんど忘れましたが、心が軽くなったことを覚えています。
さのさんのnoteより
評価や地位、名声、コスパといったものを気にしなければいけない世の中を生きている人が多いだろう。だからこそ、何も意識せずお喋りできる(お喋りしなくても大丈夫な)人を大切にしたい。
そういう人と会う時間を、大切にしていきたい。
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takaren advent note 62日目
cotree advent note のnoteをひとつずつ紹介している。
今回のnoteはこちらから。
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