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世の中に当たり前はない、という常識。
小学校に上がる前の私は500円玉が大好きだった。
大人たちも、ただ純粋に大きさやギザギザを喜んでいるだけの無垢な幼女には、硬貨界最大のその価値も気にせずにホイホイとくれたものだった。
ある時、私は同じ保育園に通う友達めぐちゃんに、そんな500円玉を1枚あげた。
そしてその夜、めぐちゃんのお母さんから家に電話がかかってきて、私は母に怒られた。
いちごが5つあってそれを分けてあげるのは褒められるのに、500円玉は怒られる。その意味がわからなかった。私は大事にしているものをあげただけなのに。良い事をしたとさえ思っているのに。
いちごだってお金を払わなきゃ買えないのに、いちごは良くてお金はダメなの、なんでだろう。
私は子供になんて説明するだろう。
自分が正しいと思う事も、どこかまで行くと正しくなくなる場面がくる。人によって場所によって環境によって時代によって、正しさが違うから難しい。
というか、正しさはひとつである必要もないから難しい。
彼氏が女友達と2人で飲みに行ったことに、電車の隣の席の女の子がブチぎれていた。
彼女側では間違いなことが、彼氏側では間違いじゃなかった。関係の中で正しいと正しくないを擦り合わせていくのがコミュニケーションですね、と思った。
一方的に怒られた幼き私、かわいそう。