無言の寵愛
私は季節に合わせて音楽を聴き分けるほどその分野にこだわりを持っていない。しかし,夏だけははっきりと8分の6拍子とシンコペーションとが体表にまとわりつく不快な大気の質感を風情あるもののように変化させることを知っている。それらをもってしても意識を朦朧とさせる暑さを孕むこの折,父が還暦を迎えた。
10年前の私の父に対する感覚をよびおこすと「快活とはいえない私の父なのだから60歳にもなれば食事介助の1つでもし始めるのだろう」と半ば冗談混じりに思っていた。しかし,その表面上の認識が間違っていたのだと理解させられたのは,私も社会人として働くようになってからのことである。朝家族の誰よりも早く会社へ向かい,誰よりも遅く家に帰ってくる。それに帰ってきても職場でのことは話さず発泡酒1本を潤滑油にして,翌朝私が歯を磨いてる間に音もなく会社へと向かうのだ。
そんな朴訥な父は私に対しても同じ態度でいて,「こう言う場合こうしてみろ」というようなのは一切と言って良いほど無かったし,逆に「自由にやってみろ」というのも無かった。そういった処世術を授ける場面での任は世話焼きの母が担っていたため,そのところ父は自分の役割を弁えていたのだろう。
しかし,そんな恒常な父が私の行動を統制しようとするのは,決まって私達兄弟が身体中何処かしこも殴り合っていたときだけだった。だがその甲斐も虚しく,私は粗暴な思考回路をもつ人間に成ってしまったのだから,彼の子育ては基本的に失敗したと言える。
そんな父は,一体私に何を為したんだろうと考えた。「還暦を迎える父を祝おう」なんて考えついたのは,私が歩んできた20有余年で父から何かを得たからこそ,だと思うからだ(白状すると,かの母親が1年前からこの日のことを私に促していたのも大きな誘因の1つなのだ。。)。
父という人間,彼は美術品を愛している。エゴン・シーレや鴨居玲は父の愛すべき作品を生み出す画家らの一端なのだろうと思う。
父はシーレの歪な自己愛について語らないし,鴨居の鬱没とした死生観についても語らない。寵愛の対象物である美術作品であっても務めて無言の姿勢にあって,公然とそれらを評価するような物としては捉えていないのだろう。だからこそ実の父親の趣向を語るときであっても,その全体像が推測の域を超えないのだ。ただ,そんな推測の力無い根拠として「父さんが(私)ぐらいのときに美術館で初めてシーレを観た」とか「(私)ぐらいのときに無名だった鴨居玲の作品を買おうとしたことがある」とか,私の年齢に据え置いて,その時どんな体験をしていたか独り言のように呟くことがある。これらの呟きを寄せ集めて彼の趣味趣向をほとんど計算するように導き出すのだ。
そして,私もそんな断片的な彼の追憶から美術品を覗いていたことから当然それらに魅了されていった。それらから激昂や劣情,悲嘆を読み取るとき,それらと対面しながらも微睡の中にいるような深い愉悦に沈むのだ。こんな大切な時間を与えてくれたのはその作者であり,空間であり,父なのだと思う。これまで父から上手に生きる方法のようなものを学ぶことはなかったのかもしれない。しかし,時に弱音を吐きたくなる日常の中で,愉しみを見出すきっかけの1つを与えてくれたのが父であったのだ。これこそが今日を迎えることになった1番の理由なのだろう。
蛇足:画像は還暦祝いとして父に贈ったものである。セイコープロスペックスのダイバースキューバラインの1つで,SBDCモデルのうち100番系の型式番号を冠する『SBDC105』である。同100番系モデルは,セイコー第1作目のダイバーズウォッチ,通称「ファーストダイバー」の現代解釈版デザインでの復刻モデルである。
1965年〜1967年に製造された「ファーストダイバー」は,映画『男はつらいよ』に登場する「寅さん」こと車寅次郎が劇中着用した腕時計であった。父はこの映画の愛好者である。本作は1969年に第1作を公開後,1995年までの26年間で,計48作(特別編を除く)が放映された。その中でも最終話,第48作『寅次郎 紅の花』は父の最上の一編なのだろう。この作品で寅さんの流浪の行き先となった奄美大島は父が以前から行きたがっていた慕情の地なのだ。
そんな映画で使われた腕時計を父に贈ろうと思ったのが1つと,腕時計に関しての知識が皆無であろう父が粗野に扱っても良いように機械式時計の中でも比較的耐久性の高いダイバーズウォッチをと思ったのがこの時計を選んだ理由だ。
いつか父が,すでに済ませた朝食のことも私の顔すらも思い出せなくなったそのとき,鈍色に輝くこの腕時計を父のその左手首から引き剥がそうと企んで,粗暴な愚息としての役目を全うしたいともおもうのだ。